炎暑の中、国民的課題としての節電と向き合っている日本。ロンドンを訪れる日本人から聞く話や、メディアで節電の知恵が頻繁に取り上げられている様子から感じられるのは、本当に日本という国は挙国一致で何かを遂げることができてしまう、類い稀な国だということだ。

これは決して皮肉などではなく、国家や地域単位で争いなく合意を形成したり、ましてそれに基づいて一定の結果を出すということが大変に困難なヨーロッパにいて、節電というスローガンを掲げられた日本国民が暴動など起こすこともなく平穏に日々粛々と節電を実現していることに、純粋に敬意を抱く。

ローテクなヨーロッパ人から見れば、世界一ハイテクを謳歌していると信じられている東京で「国民の日々の地道な努力によって」節電が行われている図は、驚異以外の何ものでもない。
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そのヨーロッパから、日本の原発事故や脱原発問題にどのような視線が注がれているかを論じてみようと思う。しかしその前に、現在の日本ではまず自分の立場を明らかにしてからでなければ原発の二文字を語りにくいのだとか。私自身が「脱原発派」か「原発維持派」かと問われれば、答えは少々長くなる。

私は原発とともに育ったので、原発運転はあと四半世紀を最長期限として停止、一方で対外的な国策として脱原発をいまこの時点から早急に掲げる必要があると思っている、「最終的に脱原発派」である。

どうして原発とともに育ったなどと口にするかといえば、福島第一原発は、それこそが40年前の私の父の職場だったからである。原発が周囲の生態系に及ぼす影響を測る環境アセスメントの研究者として、福島第一原発の草創期に関わっていた父は、その頃生まれた長女の私に「環境」の一文字を取って名付けた。

日本各地の原発に関わった父は、家族旅行のついでに原発周縁にある研究所へ仲間を訪れては、近くの海岸で家族ぐるみでバーベキューをし、私たち子どもは何の躊躇もなく海に入ってぷかぷかと海水浴を楽しんだのである。

微量の放射線物質が科学者たちの目から公平に見ても確実に溶け込んでいる原発周辺の海水浴場で泳ぎながら、私はそれが自然放射能と大きな差のないレベルへきちんと管理されていることを教えられ、日本の技術力の高さを教えられた。だから私は、世界唯一の被爆国、「原子力の火に焼き尽くされた」日本がそれを克服し、その火を確実にコントロールして繁栄しているという事実に、むしろ誇りさえもって育ったのである。

だからあの3月11日、福島第一原発がごっそりと津波にえぐられた光景に、当初私は大きな衝撃を覚えながらも安全への自信を揺らがせることはなかった。日本の「優れた」技術と「優れた」日本人技術者たちの存在に微塵の疑いも持っていなかったからである。

だがその後の報道からは、福島第一原発が放射性物質の大規模な拡散へと着実に歩みを進めていることが次々と明るみになり、ニュースヘッドラインがひとつ出るたびに、私は屈辱感に打ちひしがれていった。

在京の大使館が自国民に日本からの脱出を勧告し、成田に帰国を焦る外国人たちの列ができ、世界中の核保有国の原子力技術者たちがさまざまな見解をてんでに示す。ヨーロッパで原発停止の動きが出て、それを受けた「ほら見ろ、だから言ったのに」と高らかな声が国内からも聞こえ始める。

震災当時中央ヨーロッパに住んでいた私は、ネットのミラーサイトでのNHK放送に丸一週間釘付けになり、何度も流れる、崩れきった福島第一原発の映像を見ながら泣いた。私にとっての原発事故は、経営や行政による人災だとかメディアぐるみの情報隠蔽があるとかないとかそういう話ではなく、私が幼い時から馴染んできた実直な技術者たちの技術的敗北を意味していた。そしてその敗北の先に広がるのは、人間たちの手に負えぬ破滅的な光景だった。

原子力の火は、私たちが世に言うサステイナブルな(持続可能な)発電手段では決してない。放射性燃料処理の問題を必ず伴い、世界のどこかに、我々の寿命と同じくらいの長期の半減期を待つ放射性物質が廃棄というかたちで埋められている必要があるからである。

人間が実感として想像し得るタイムスパンは、その寿命までだ。それを超越せねば処理しきることの出来ない廃棄物は、その意味で「処理できていない」。20世紀後半の原子力を巡る数々の事故や論議から、人間たちはそれを充分知っていて大規模な発電力を優先し、電化生活の恩恵に浴していただけのことだ。二たび日本で起きた原子力の悲劇を、この発電方法を見直し脱する機会とするのは理に叶っているし、被爆国日本の使命と考えてもいいのではないか。

ただ、脱原発自体に対しては、国内と国外の温度差があることを認識しておかねばならない。ドイツやイタリアの脱原発への機運が日本で正義として報道されているが、それが海外のトレンドだと思い込むのは大間違いだ。

脱原発を推進する独伊は、日本を含め第2次世界大戦の戦敗国。その3カ国の言語は、United Nationsの文字通り第2次世界大戦の戦勝国連合を意味する国連の公用語にも当然入っていない。独伊は、日本と同じ戦敗国ゆえに核へのセンチメントと、原子力発電への罪悪感を日本と共有し得ているのである。

戦勝国たちは決して核を手放さないし、国家として原子力発電に罪悪感を持つこともない。原子力発電に否定的な視線を持つのは先進国の左派のみで、その彼らさえも、大勢は原子力発電を「自分の生活半径とは別の世界の出来事(さらに言うなら社会的に下層の仕事)」と認識、しかしその恩恵には無自覚に浴している。

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電化された便利な生活を手放す気は毛頭なく、経済効率のいい(と信じている)発電方法をみすみす手放すことにメリットがあるなどと全く思わない。つまり、原子力発電が自分の問題だとは考えておらず、自分たちが核保有国の国民だとは全く積極的に意識していない、しかし一方で原発に対して眉をひそめるという、当事者意識に決定的に欠けたダブルスタンダードがまかり通っているのだ。

その視線から言えば、脱原発は先進国の選択としては「なぜわざわざ?」と疑問符を打たれる。日本の経済状況からして、わざわざ更なる不利にまわる意味不明な迷走をしているとしか見られていない。震災の当事者ではない国々では地震と津波の衝撃的な映像は既にとっくに風化し、日本の原発事故は「被害者補償でTEPCOと日本国政府にさらなる巨額の負担」という切り口だけで、ごく稀に報道されるだけである。脱原発の論議は、「繊細な日本人が津波のショックでまたセンシティブになっている」という程度にしか受け取られていないのだ。

「脱原発」は、日本国内の実感とはかけ離れて世界的にはまったく共有されていない感覚だ。しかし彼らは、原発に眉をひそめる程度には放射能の影響を恐れる素地がある。自分たちに経済的に負担のかからない代替発電方法があれば、さっさと乗り換える準備がある。そしてその「負担のかからない代替発電方法」の発信元、それは日本発であっていいし、日本であるべきだと私は思うのだ。


河崎環河崎環
コラムニスト。子育て系人気サイト運営・執筆後、教育・家族問題、父親の育児参加、世界の子育て文化から商品デザイン・書籍評論まで多彩な執筆を続けており、エッセイや子育て相談にも定評がある。現在は夫、15歳娘、6歳息子と共に欧州2カ国目、英国ロンドン在住。