「あなたのためを思って言ってるのよ!」「ぼくの気持ちなんてお母さんにはわからないんだ!」昔よくドラマで見かけたシーン。親が「助言」するつもりで、余計な口出しをしているパターン。

これはよくない、子どもの選択を尊重しよう、と思うのは親としてのほのかな理想。しかし、現実は、ついつい口を出したくなる。子どもにとって、親の先回りしたアドバイスなんて余計なお世話なんだよね。親は耐える、自分の基準を子どもに押し付けるな……。


メリーゴーランドで。「どれに乗ってもいいんだよ、好きなの選ぼう!」「これにした!」「え?それでいいの?こっちの馬、ほら、上がったり下がったりするし…」
いや、その馬車の座席系のでもいいんです、しかし同じ金額で、その椅子に座って前進するだけよりは、この馬の方がお得感が…。

パン屋さん、トングではさんでトレーにのせられるパン屋にはたまにしか連れて行ってもらえない。「今日は好きなの選んでいいよ~どれにする?」「これ!」「え?これ?」
ロールパンとはまた地味なものを…。それならこのパン屋さん中止にしてスーパーに1袋6個入りのを買いに行きたいんですが…。
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動物園で。園内の土産物屋を通りかかる度に吸い込まれていく子ども。あなたが見たかったのはそっちですか?
だから、そのぬいぐるみとか図版とかじゃなくて本物の動物がすぐそこにいるんだけど。あ、ほら、ぞうが草食べてるよ!

フリーパスで初めての遊園地。さぁ、小さい子どもでも乗れる乗物にじゃんじゃん乗るぞ……とマップを熟読する親の横で、コイン式の乗物に目をキラキラ輝かせる子ども。
いや、今日はそういうのじゃなくて、この地図のね、この子どもマークのついているのだけに乗るっていう取り決めっていう訳には……いかないよねぇ……。

水族館、最後のお土産コーナーで。「よし、今日は一個だけ何か買ってあげようかなぁ。ほら、こんなのあるよ?」店内を何周もして熟考の末、「これがいい!」
……いや、何もここでガチャガチャやらなくっても。ならばせめて中身が魚っぽいものであって欲しい。


幼いうちのこんな基準のずれ。大人にとっては「些細な事」や「かわいい出来事」かもしれない。しかし子どもにしてみれば、自分の生活の中の大きな部分を占める出来事で重大な決断のひとつ。

親から見れば「え?」な選択でも、実はそれまでの経験の中で得たたくさんの事例や知識を頭をフル回転させ検索して比較検討の末、決断している。親の経験は期間も量も子どもの何倍もあるのだから、違う基準になるのが当然。親の基準の方が優れているのではなく、「大人の事情」が加算されているというだけ。

ガチャガチャが不毛な投資であることを大人の私は経験上よく知っている。でももし今、私の経験を巻き戻して(1)薦められた海の生き物セットによく似たサメセットを既に所有している(2)憧れのガチャガチャはまだ1回しかやったことがない、にしたら、どっちに手を伸ばすか。それはやっぱりまちがいなくガチャガチャだ。

頭では理解しているつもり。それなのに「周りに流されず自分で考えて行動できる人になって欲しい」と思いながら、親の意図に沿った選択をさせる経験ばかり重ねさせていたり、「経験から学んで欲しい」と思っているのに、先回りしてそのチャンスを回避させてしまっていたり……この自己矛盾に満ちた行動の何と多い事か! まずいまずいと気付いては軌道修正を繰り返す。


そのロールパンの中には何も入っていなくてこっちの手みたいな形のパンにはクリームがたっぷり入っている、ということを今ここで教えてしまったら、それはこの子が「経験から学ぶ」チャンスをひとつつぶしたことにならないか。

馬車の座席から抱え上げて白馬の背に乗せてしまったら、自分の決定や意志がまた尊重されなかったという負の経験をひとつ増やすのではないか。

親は瞬間的に悩み、ぐっとこらえていたりもするのだ。そして、こっそりクリームパンも選んでおき、子の落胆に備え、白馬にまたがり手を振る我が子を想像力という心のファインダー越しに見つめ心を満たす。


でもね、「あぁこれは倒しそうだなぁ」と思った30秒後にその牛乳のコップを必ず倒すあなたに、やっぱりつい口を出してしまうのです。

さぁ今年も1年、基準の違う「わかりあえない」者同士、楽しくやっていきましょう!


狩野さやか狩野さやか
ウェブデザイナー、イラストレーター。企業や個人のサイト制作を幅広く手がける。子育てがきっかけで、子どもの発達や技能の獲得について強い興味を持ち、活動の場を広げつつある。2006年生まれの息子と夫の3人家族で東京に暮らす。リトミック研究センター認定指導者。