最後に自分自身が「小児科」にかかったときのことをよく覚えている。中3の冬、受験ストレスで顔に湿疹が出て髪の毛をむしり発熱げほげほだった私を、母が「皮膚科・小児科・こころのケア」を標榜する隣町の医院に一度で済むとばかり放り込んだのである。しかし「相当待つだろうし、お母さん忙しいし、帰るから。じゃあね」って、エッ?

「大丈夫でしょあんたもう15歳だもん」ってお母さん。既に身長166センチ、ちびっ子のママたちをも見下ろすようなナリして「チアキチャ~ン」と節の付いた裏声で呼ばれる屈辱をお分かりか? わなわな。
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ウサちゃんのタイルカーペットが敷き詰められ、壁にはクマさんサルさんキリンさんなどの模様が踊り、テレビモニターでは音無しでアンパンマンが流れているソフトフォーカス空間。そして私以外はほぼ3歳以下のお子ちゃまばかりという平日午前の長閑な小児科待合室。

そんな場を汚すがごとき、この陰気な女子中学生を、ヤングなママたちは観察している、ようである。ていうか絶対見られてる。あいつ変な奴だと思ってる! ……等々、自意識過剰なお年頃のチキンハートは押しつぶされつつ熱くアガり、ほとんど竜田揚げ寸前だったのである。

でも、私はここの銀髪の女医さんが好きだった。家から遠いので滅多にかかることもなかったけれど、毎度私を覚えていてくれ、例によって綺麗なファルセットで下の名を呼んでくれ、「どうしたの県立受験日まで1ヶ月切ってる? 辛いねえ」と話しかけられながら、咽喉を見ると嘔吐反射でおえっとしやすい私に「がんばれっ」と笑いながら言ってくれる、この先生が。

しばらくクドクドと悩みを話す私の愚痴を、うんうん聞いてくれていたおばあちゃん先生。緊張すると吐きそうになること。おなかを下すこともあること。受験会場で不安なこと。笑みをたたえてただ聞いてくれているなかで、「あなた大丈夫よ、私わかるのよ」とサラリかけられた言葉はしかし、処方されたお薬よりも強かったのだと思う。高校には無事に合格して、二度とその医院に行くことは無かったから。

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さてそれから10数年後、私は患児の母として、別の街でひさびさの「小児科」に足を踏み入れることになった。その午後の待合室は様々な年齢層の子どもたちと親とで混みあい、まあ評判がいいのだろう仕方がないとは思いながらも、隣席の子どもがいきなり吐いたりして怖いなあ、と新米母の私はおののいていた。

だいたいこんなに病人がいると、要らない変な風邪とか貰いそうで怖い。ああ、怖いと言えばあの隅っこの方でどす黒い顔をしてすごい音量で咳こんでいるでっかい男はアレ、何だ中3くらい? うわあやっぱりあんだけでかいと浮いてるよなあ。でもあの咳なに? 結核とかだったらどうしよう?! ぶるぶる。震え上がる。

震え上がると言えば反対の隣席のママ(シャカシャカいうトレパンみたいなのを履いてる金髪の)が連れてる1歳ぐらいの子を、「さっきからママママうっせーんだよ 家に帰ったら覚えてろこの」とか恫喝していたりするのもヤバい。うわあこのママと小学校とかで一緒になったらどうしよう?! 怖い怖い怖い怖過ぎる! 小児科って怖いところだったのか? 子どもじゃなくて、親にとって。

でも、一番怖かったのは私の腕の中、真っ赤に腫れ上がった顔でハアハア苦しそうにしている我が子の病状だった。大病だったらどうしよう、入院とか言われちゃったらどうしよう? ぐったりした子を抱え、私は心配と恐怖で半ばパニックして吐きそうになっていた。おなかもグルグル言い出し、これはまずい、かなりまずい。

とかなんとかやっている間に、ようやく娘の名が呼ばれてほっとする。完全予約制ながら、1時間半ほど待ってのことだった。


さあ! 私は張り切ってメモしておいた娘の病状を時系列で説明。併せてここ数日、我が子を看病しながら不安に思っている点や親として感じた疑念(熱は高くないのでもしやアレルギーかと)等を述べた。我ながら冷静かつロジカルに説明できたと思っていた。が、せわしなさそうな雰囲気をたたえている先生は、がしがしカルテに記入しながら「で、あなた医療関係者なの?」と薮から棒に言った。

「は?」

「医療関係なのかって聞いたの」「は、いえ、違いますが……」「じゃあなんてこの子がアレルギーだって分かるの?」「いや分かりませんが、分からないから来たんですが……」「分からない、分からないんでしょ! 素人判断で済めば医者要らないんだから。この症状だってね、だいたい小児科のオーソライズした見方では云々……」

「?!」

人間、緊張を超えた驚きに見舞われると、嘔気も腹痛も四散するものらしい。その後なにかガミガミと叱られながら処方された軟膏を受け取り、とぼとぼ赤ん坊を抱えて家に帰った私だったが、その不安も、心配も、恐怖も、なにも消えてはいなかった。娘の全身に生えた蕁麻疹も、なんなら消えていなかった。

「医療は助けてくれないんだ」という絶望が頭の中いっぱいに拡がって、家の寝室で娘を見下ろしながらしばらく泣いた。人の子の母親になったとはいえ所詮素人。「私、なんてダメな母親なんだろう?」。自分の無知無力を呪い、泣いたのだった。

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しかし光陰矢の如し。かく泣いた若母も10年歳をとり名実共に図太く成長を遂げる。まあ分かってるんだ、「お母さん」だっていろんな人がいるように、「お医者さん」にもいろんな人がいる。ただそれだけのことで、そんなのごく当たり前な話で。けれども。だけれども。

「素人」の母親や子どもたちにとって「効くお薬」をくれるお医者さんが、いつも必ず近所で見つかるわけじゃない状況。そう、この10年の間に、日本の医療はのっぴきならないところまで来ている。

総合病院の小児科、老齢化した開業医、どんどん減っている。いつの間にやらそれなりに都市部だと思っていた我が家近辺が、医料過疎地なんて言う名で呼ばれているっていうのは、やっぱりショックだし、残念なことだ。そして厳しいことだ。しみじみ思う。

私の田舎ではまあ20数年前から、もうそんなに開業医もいなかったから私も隣町まで遠征していた訳だけれど。先日あの銀髪の女医さん、今もって現役で診察しているのらしい噂を耳にした。「あの先生がご近所ならなあ」なんて思ったこともあったけれど、20年前にもおばあちゃんだった先生がまだおばあちゃん先生って何だか凄いなあ。でもやっぱり厳しい話だ。しみじみ思うのだ。


さてこの10年間、件の小児科医院には別れを告げたものの、何軒かの小児科医院をジプシーしながら無事3人娘のかかりつけ医を定めることができたのは、ただただ僥倖だったと思う。

そのドクターの外見が「銀髪の女医さんかぶり」しているのは、偶然のようでいて、やっぱりどこか安心の面影があるからなんだろう。

人の親になってからこちらほぼ毎年そうであるように、この冬も子どもたちは咳き込み、発熱し、下痢し、目を腫らし、鼻をたらし、赤くなったり白くなったりしている。インフルエンザA禍に一息ついたと思いきや今度はBが来てるわよと今日もかかりつけ医。やれやれ。

とはいえまだ相変わらず子どもの不調毎に緊張し、心配のあまりに吐きそうになったりお腹を下したりしながら、私はなんとかかんとかやれている。それはひとえに私や子どもたちの名を呼んでいた、あの女医さんの明るいソプラノ。耳に残るあの「あなた大丈夫よ」が、まだ効いている証拠なんじゃないかな、先生。


藤原千秋藤原千秋
大手住宅メーカー営業職を経て2001年よりAllAboutガイド。おもに住宅、家事まわりを専門とするライター・アドバイザー。著・監修書に『「ゆる家事」のすすめ いつもの家事がどんどんラクになる!』(高橋書店)『二世帯住宅の考え方・作り方・暮らし方』(学研)等。9歳5歳1歳三女の母。