震災から1年経った2012年3月11日、私のささやかなTwitterのタイムラインに、あるツイートが静かに流れて来た。
「この一年、どんなに深刻な気持ちになっても、一切お構いなしに容赦なく、娘に振り回され続けた。守るものがあった。だから正気を保てたし、救われた」

私の日本語と英語の混ざったタイムラインで、その、日本で子育て中のお父さんがぽつりとつぶやいた日本語のツイートは異なる光を纏っていた。他のどんなセンセーショナルなニュースや攻撃的な言葉遊びのツイートとも違って、刺さるのではなく煽るのでもなく、穏やかで、なのにしんしんとリアルだった。私はその静かなリアリティを前にしてファボることもリツもリプもできず、ただそっと流して、かみしめた。

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10年以上も前の米国で、ニュースチャンネルの印象的なCMがあった。中年の男性が、TVの前でバスケットボールの試合を見ている。応援するチームがその試合に勝って雄叫びを上げたところに、同じく試合を見ていたのであろう友人から電話がかかり、「お前もスポーツバーに来て祝杯に参加しろよ」と誘う。

「もちろん行くよ、」と答えかけたところで、今自分が座っていたソファの横で、ゆりかごの中の赤ん坊が鳴き声を上げる。赤ん坊を振り返り、受話器をじっと眺めて、その父親は一言、「いや、今日はやめておくよ。娘の世話をしなきゃ」と誘いを断るのだ。

そこに「コミットメント」というナレーションがかぶさり、「私たちは本気で報道にコミットします」というキャッチコピーが出る。

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そのCMの出来や、男性のあり方の是非は置いておくとして、育児に「コミットメント」という言葉が使われることに、深い説得力があった。子育てとは、生まれ出たものと正面から向きあうことだ。必要なすべての世話をすることだ。その行く末に責任を持つことだ。

子どもは傍らでメトロノームのように揺れながら、しかし正確に有機的にリズムを刻んでいく。人間の赤ん坊は、世話をしなければ死ぬ。守らなければ、世話をしなければならない相手の存在が、人(私)を助け救い律することを、あのツイートの主は知っていたのだ。

そうでなければ、我々はカンタンにいくらでもリズムを崩し、リズムを失っていくことができる。いつでも何かから逸脱し、堕ちたり正気を失ったりすることができてしまう。親もまた、弱い人間だ。

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本当のことをいうと、私は親になるのが早すぎた。充分にオトナだというふりをしていたが、当時私にとって22歳という年齢はまだまだ早かったのだ。20代、私は子どもがいたから大人になれた。

友人たちが輝かしいキャリアをスタートさせるのを横目で見ながら、赤ん坊と一緒にリビングの窓から日中の世の中をぼんやり眺めていた。退職した老人たちと、よちよち歩きの子どもたちと、疲れ切った母親たちしかいない公園に通った。

だが、客観的に見たその姿が飯炊き女であろうと洗濯女であろうと、メシを人のためにきちんと炊いて作ることで、私は日々をたとえ怠惰に無目的に過ごしても、そのリズムだけは崩さずに済んだのである。

例えおかあさまという与えられた役割を被った「コスプレ」であろうとも、朝6時に起きてお弁当を作り、子どもを学校へ送り、役員の顔をし、受験させ、私は正常な社会とのつながりを失わずに済んだ。

社会への興味を失わずに済んだのだ。不況で大人たちがどんどん自ら命を絶っていく世の中で、子どもたちだけが確かにゆるやかな右肩上がりの線を描いて生きているように思った。

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日本のドラマを見ていたある日、「親だって壊れる。親だから壊れる」という言葉に覚醒させられ、それを書けた作家の力量に慄然とした。親だからこそ、コミットしているからこそ、守るものがあるからこそ、静かに蝕まれ、静かに小さく壊れる。

大人は恐怖や悲しみや猜疑心に潰されそうになったり、見栄や恥や衝動に踊らされたり、怒りに盲目になったり、真っ黒な恐怖や不安に飲み込まれそうになったり。真っ黒な口をぽっかり開けて待ち受ける大きな穴のなかにいとも容易に飲み込まれていくことができる。不安定で不確かな社会で、正気を失うことなどカンタンだ。

でもその傍らで子どもはあくびしたりうんちしたり笑ったり泣いたりお腹がすいたりして、私たちを必要とする。子どもは、ものすごい速度で流れ、ぶつかり、渦を巻く大きな海で飲み込まれ消えてなくならないための錨(アンカー)だ。だから親は正気でいられるのだ。

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「面倒くさい自分」がいる。怒ったり泣いたりはっとしたり思い上がったり、毎日、一番面倒くさい自分と向き合っている。子育てをしていると、自分こそが子どもよりもはるかに面倒くさい存在であることを知る。私たち大人は、面倒な奴らだ。

心も、家も、地面も、どんなに揺れているさなかにも、子どもたちが私たち親を必要としている。子どもたちが朝いやでも5時半に目覚めて「ごはんー」と言うから、私たち親も渋々起き上がる。

子育て中の私たちには、子どもがいるからこそいやでも朝がやって来る。そしてその柔らかな頬に救われる。4月、新しい季節がどの親にも子にもやってくる。また新しいリズムが生まれ、失調したり復調したりするのだろう。すべての親と子に幸あれ。

自分のお腹が減っているのにも気がつかないほど疲れ切ってしまわぬように、子どもに美味しいおにぎりを握ってやったら、自分にも一つ握って一緒に食べるのがいい。そうやって私たちは日々を紡ぐのだ。


河崎環河崎環
コラムニスト。子育て系人気サイト運営・執筆後、教育・家族問題、父親の育児参加、世界の子育て文化から商品デザイン・書籍評論まで多彩な執筆を続けており、エッセイや子育て相談にも定評がある。現在は夫、15歳娘、6歳息子と共に欧州2カ国目、英国ロンドン在住。