何かに怒るのって、疲れる。でも、私はずっと怒っていた。

「はぁ?まだそんなこと言ってんの?まだそんなことやってんの?」と日本で起こるあれこれに、わざわざロンドンから噛み付いて、悪態をついていた。

暑いからかな? いや、こっちの夏は長袖必須なほど涼しいぞ。自分が何に腹を立てているのか、自分でもよくわからなかった。でも、悶々と安いサラミを噛み締めていたある時、ようやくわかった。

欧州から日本のニュースを聞く。日本の新聞に目を通し、おもに電子書籍で本を読み、インターネットでテレビ番組をチェックする。ネット上の日本の言論(…と言ったって一部だけど)に目を通す。そこで感じるのは、日本人の中にある独特の「甘え」。それも、「弱者への甘え」だ。

学校の必須カリキュラムなんですか?と思えるようないじめ、絶え間なく沸く女性嫌悪、外出もままならない子連れヘイト、渦巻く外国人ヘイト……。

それらが、匿名で実名で、時に応じて対象を変え、手を替え品を替え、当たり前のように「常に」イライラと存在している。

そして、私も見事にカンタンに「煽られる」。1万キロ離れ、8時間(夏時間)遅れたロンドンで。

日本のネットの論調を見ていると、 同言語、同民族の同質性の高い皆でひしめいて生きているからなのか、 その苛々と毛羽立った感じにいつもビックリする。おっ、今度はそこを攻めるか、よくまぁ次々とイライラの対象を見つけてくるなと、感心さえする。

空気穴のない感じに、窒息しそうだ。弱いものに唾する行為が、「率直」としてやんやの賛同を得るのを見ると、「ネットは排泄の場所なんだなぁ……」と知らされる。日本らしい本音と建前の二重生活ゆえなのだろうと思いつつ。

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欧米の紙面や誌面や画面にそんなものがないとは口が裂けても言わないが、その多くは政治的正しさに厳しい社会における「言論」として、自覚的である。社会的な制裁が待っているから、弱者を批判したり笑ったりする時には、細心の注意とバランス感覚が必要だ。

一方で、日本のメディアに溢れるヘイトや蔑視表現のゴロンとした大雑把さ、「悪意のなさ」は戦慄を呼ぶ。

「悪意がない」。なぜならそのヘイトや蔑視は当たり前だからだ。「女や子どもや外国人が鬱陶しい」と思うのは当たり前で、そう思っても人間としての質を損なわないと受け取られているからだ。しかもそれは女性同士の視線、子ども同士の視線の中にもある。ヘイトはヘイトの連鎖を産む。

欧州は自分と他人の間に人種や階級や、決定的な違いがある。そんな社会ではまず、コミュニケーションは少なくとも表向きは他人への敬意(という名の、時に致命的な距離感)から始まる。もともと距離があり、それぞれ異なる背景を持ち、相手の中身を想像しなければならないから、相手をよく観察し、対話する必要がある。

同じ白人や黒人や中東系やラテンやアジア人に見えても、その人がどこの出身でどこで育ち、何語(多くは複数の)を喋り、何の宗教を持ちどういう教育を受け、何を職業とし、どこの国の人と結婚して(あるいはそんな社会的儀式に縛られず)、どういう形で子どもをもうけて(あるいはもうけず)、何を読み聴き観て食べ、どのような生活スタイルを送っているかで、個人個人は言うこともすることも信じることもまったく違う。かくして、人間を「くくる」ことはすべからくアホらしい。

さもなければ、徹底的に無関心でもいい。その代わり表面上はマナーを十分に守って住み分け、相手に意見もしない。関心がないなら、相手を知らないのだから意見など形成することができないはずだからだ。

相手と対話するつもりがないのなら、身をわきまえて完全に沈黙すべきだ。逆に、意見を表明するのならそれは積極的な関わりだから対話すべきだ。

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日本のように視線も合わせず、対話もせず、理解の試みなく「自分と異なるもの」に安易なヘイトを持つとは、それは明確な「差別」だ。まともな教養のある市民としての権利も義務も放棄しているという意味だ。

これを人権意識という言葉で大雑把に呼ぶのはためらわれるが、日本人の「意識の差」は、ときに海外において思いがけない形で表面化する。

パーティーで「私の周りの高学歴の女性はみんな不幸だ。女性が勉強しすぎるのは少子化の原因ですよ」とツルツルとのたもうた、「国際エリート」の日本人男性などはかわいい方だ。

海外、特に欧米在住のごく一般的な日本人家庭で、DVや児童の(性的)虐待の疑いで事情聴取されたり、書類送検されるケースがある。明らかなクロやボーダーギリギリの場合もあるが、現地の隣人などによって誤解され通報されることが大半である。

性的虐待として通報されるのは、兄弟や父親がスキンシップ(あるいは意図的な嫌がらせ)として子どもの身体を触り、それを子どもが学校で「嫌だった」と話したケースに多い。が、中には悪質なDVのケースもあり、関係者が「日本固有の文化の問題である」と発言、それを報道した現地新聞や在外邦人から「DVは日本の文化か」と嘲笑の的になった。

人権意識の強い個人主義の社会では、日本人家庭で「よくあること」が犯罪と捉えられたり、痛い目を見る。その時初めて、日本の普通は彼らの普通ではなく、日本という狭い島の中だけで通用させてもらっているだけのローカルルールだと知っても、もう遅い。

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ここで顕在化するのは、日本人が考える「(家族であっても)超えてはいけない線」の曖昧さだ。子どもや妻は家族で所有物、だから何をしてもよい、暴力やハラスメントじゃなくて愛情だ、くらいに思っている。

ところが個人の権利が確立している社会ではそれは愛情じゃない、甘えで犯罪だ。これは父親と子どもだけでなく、母親と子どもの関係にも言える。子どもを支配し、自己実現の手段にし、子離れできずに死ぬまで束縛を続ける。日本ではあらゆる「甘え」の暴力が愛情と勘違いされて連綿と許されて来ただけのことだ。

同質性の高い日本社会には、お互いがまったくの他人であるという前提がない。理解するために対話するという発想がない。本当は一人一人生きている文脈も吸っている空気も違うのにぶつけられる、「言わなくてもわかるでしょう」「空気読め」。そうやって言語化されずに、ただ飲み込まれてきた闇がある。

日本の社会にも、学校にも、家庭にも親子にも。飲み込めないほど大きな闇に膨れ上がって初めて表面化するが、大きくは前進しない。対症療法をあてがわれ、やがて忘れ去られる。日本の社会は、ひたすら足踏みだ。

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「海外在住のヤツの上から目線」

海外にいるからってそんなに偉いワケ?自分も昔そう思っていたから、よくわかっている。海外から同じ日本人に何か言われるって、それだけでムカつくもんだ。

でも、日本の感覚が全然デフォじゃない海外から日本を見たときの奇矯感ったらハンパない。そして、それが同じ日本人同士なのに通じない苛立ちと言ったら。1万キロの距離を介して遠く欧州から見ても頭に来るのだから、日本国内にいながらにして「日本、まだそんなこと言ってんの?」と腹を立てている人々の怒りたるやいかばかりか。


スーパーで、空気なんて読めるはずもない店員相手にがっちり自己主張して手に入れた安いサラミを今日も噛み締めながら、「そりゃ違う空気吸ってんだから、空気なんか読めないよなぁ」と独りごちる。


河崎環河崎環
コラムニスト。子育て系人気サイト運営・執筆後、教育・家族問題、父親の育児参加、世界の子育て文化から商品デザイン・書籍評論まで多彩な執筆を続けており、エッセイや子育て相談にも定評がある。現在は夫、15歳娘、6歳息子と共に欧州2カ国目、英国ロンドン在住。