「はい撮るよ~。だからほら、もっと寄って! そっちじゃない、もっとこっち。ちょっと笑ってよっ。そんな風にしてたら変な顔の写真ばっかりになっちゃうんだからね。いいのっ!」

出先で見かけた夏休みのひとコマ。兄妹を撮影中の母親の言葉は、最終的には怒りを帯びた声に。

「別に変な顔の写真ばっかりでも僕は構わないんだけど。」

つまらなそうな顔をしたお兄ちゃんの心の声が、そのとき、聞こえた気がした。


子どもは撮られるのが嫌い


写真を撮られるのが嫌いな子どもは意外と多い。まぁ、子どもにしてみれば、大好きなケーキを目の前に、大きなゾウが後ろにいるのに、はやく遊園地に入りたいのに、それらを「お預け」の状態でじっとして、カメラを見て笑うことを強要されるのだからかなわない。

写真を「撮られること」を楽しめるのは、自分が写っている写真を見ることを楽しめる人の特権だ。かわいい自分の写真を見たり人に見せたりする喜びを知った子どもは、もう「撮られる楽しさ」を知っているから嫌がらないし、とびきりの笑顔になれる。女の子はこれに目覚めるのが早いらしい。

その点、息子の七五三なんて不機嫌さ満点で、写真を撮るのは親の自己満足であることを嫌でも自覚させられた。最近はカメラを向けたら逃げ出すので、子どもの写真より、ゾウだけ、ペンギンだけ、恐竜の骨だけ、の写真が増えてきた。

親は撮るのが好き


子どもの記念に、祖父母に見せてあげたい、自分のため、理由はいろいろあるとしても、親は概ね記録に熱心だ。特に子どもが生まれてから1~2年の間、子どもの、あらゆる「初めての○○」を撮り逃すまい!と追われるように写真を撮り続けた経験のある人はきっと多いはずだ。

幼稚園でも親の撮影OKの行事となれば、小さな液晶画面が並び、ちょっとした撮影会の様相である。実際に撮影してみると、意外と「直接よく観て雰囲気を味わう」「声をかけて応援する」などに集中できないことに気付く。その場で観たり応援したりするために集まっているのに、多くの人が「後で見るため」の記録行為に一生懸命になっているという皮肉な事態に。

カメラはデジタル時代、フィルムも現像もいらない気軽さも手伝って、「あれもこれも撮っておこう」は加速し習慣化する。いつかちゃんと整理してプリントしてアルバム作るから……と言い続けて、結局そのまま何年もパソコンにたまったままの写真データの山。あぁ、これ、慢性的な撮影過多だ。



子どもの写真、一番喜ぶのは誰?


実家で、昔両親が私と兄を撮影した8ミリの映像を見た。業者に頼んでDVDに焼いてもらったらしい。数十秒から数分の短い映像に、こんな子どもだったのね、と軽く追体験。記憶がある頃の映像になるともう照れ臭い。ふと横をみれば感慨深げに目を細める父と母。

あぁそうか、子どもの記録を一番喜べるのは「親」なんだ。

もちろん子ども自身も自分の写真や映像を見て楽しんだり懐かしく思ったりする。祖父母に孫の写真を渡したらそりゃあ喜んでくれる。でも、それらは親が自分の子どもの記録に対して持つ強い気持ちとは次元が違う。親以上に子どもの記録を喜べる人は、多分、いない。

なんだか追われるように自分が撮っている子どもの写真、「実は自分以上にそれを大切に思う人はいない」と定義してみると、ちょっと気持ちが楽になる。自分が最大値。その感覚で撮る/撮らないを切り分けると、「撮っておかなきゃ」の気持ちも、未整理の写真データでいっぱいのハードディスクもちょっぴり軽くなりそうだ。

そして、学ばない母


息子6才の誕生日、請われて滅多に作らないケーキを作った。慣れない作業で必死に完成させたものだから、写真に撮っておきたい。当然、そのケーキの向こう側には笑顔の息子が座っていて欲しい。次はいつ作るかわからない! と何枚も撮っているうちに、あっという間にテンションの下がる息子。しまいには「もうちょっとだから!」と強い口調になる私。それじゃぁ笑えるわけがない。

ごめん、確かにケーキは頼まれた。でも、写真はどうでもいいんだよね。それよりこの誕生日っぽいスペシャルな気分をただ一緒に楽しみたいだけ。撮影にキリキリしてせっかくの楽しい雰囲気を壊しては本末転倒。反省……。

さぁ、今日はカメラを持たずに出かけようか。


狩野さやか狩野さやか
ウェブデザイナー、イラストレーター。企業や個人のサイト制作を幅広く手がける。子育てがきっかけで、子どもの発達や技能の獲得について強い興味を持ち、活動の場を広げつつある。2006年生まれの息子と夫の3人家族で東京に暮らす。リトミック研究センター認定指導者。