育児がスタートして数年、どこへ行くのも子どもと一緒だった。常に子どもの状態に対応できるようにするから、絶えず気が張っているし、服装は動きやすさ最優先になる。

そんな頃に、ごくたまにひとりで出かけるチャンスがあると、本気でひたすら感動した。ひとりで歩ける、ひとりで電車に乗れるってこんなに楽なんだ!



子ども同伴でないと成立しない?親子の「セット化」


でも、せっかくひとりで電車に乗っているのに、ふと気付いたら、身体が左右に揺れ続けている。これは子どもをだっこであやす癖。窓外に特急を見つけた途端に「あっ」と声が出る。これは電車好きの子どもの相手をする癖。

解放されたひとりの時間なのに、子どもをぐずらせないための電車内での習慣が身体に染みついていて、無意識のうちにそれが出てしまう。

デパートでおもちゃ売り場に子どもと夫を残し、30分店内をひとりで回ろうものなら、「あ、いや、このぱんぱんに膨らんだ斜めがけのかばんには赤ちゃんグッズが……」、「この怪しいマスコットのようなものは子どもをあやすためで……」、「こんな服なのはだっこ紐や子どもの噛みつき、汚れ、汗対策で……」、「こういう靴じゃないと抱っこしたまま脱ぎ履きできなくて……」、誰にも聞かれていないのに、心で言い訳し続ける。

もはや子連れだからこそかろうじて成立するファッションになっているのだ。そこから子どもを外すと、こんなにも心許なくなるとは。私の場合、もともと適当なので、もはやファッションという言葉すら使っていいのかすらためらわれる状態だ。

精神的に子どもを自分の一部として捉え、同一化するなんてつもりはまったくないし、はじめから別の存在だと思っている。けれど、ずっと物理的に一緒にいるので、行動や身につける物が容易に子どもと「セット化」してしまう。

仕事というスイッチ


朝見かけたお母さん。1歳代の子どもをベビーカーに乗せ、きれいなきりっとした「仕事用」の服装で出かけて行く。会社勤めで保育園に通っていれば、当たり前の光景なのだろう。でも、普段から子育てを自分のいい加減な服装の言い訳にしている私には、とても新鮮だ。

都心の高層ビルのオフィスが似合う仕事着の女性と、ベビーカーの中の家庭の香りがするふわっとした赤ちゃんにミスマッチを感じつつ、そこに、「母と子のセット」→「仕事中の個人」への移行の現場を目撃している気がした。

決して優雅なものではなく、怒濤の朝の支度をどうにか終えて保育園に預けた後、家庭内とはまったく違う職場の人間関係に飛び込んで行くのだろう。とはいえ、電車に乗ってオフィスに着く頃には、「子どもとセット」の自分は自動的に「仕事中の個人」モードに切り替わるはずだ。

子育て中心の生活をしていると、なかなか身体から「セット感」が抜けない。一方子どもを預けて仕事に行き始めると、早いうちから、簡単にその「セット感」を解体する習慣を得ていることに、大きな差を感じた。

そうか、仕事というのは、自動的に「個」に切り替わるスイッチになるんだ。

そういえば、私は家で仕事をするから服装も空間も日常とまったく区別が無いけれど、子どもを託した状態でパソコンの前で集中していれば、頭から子どもの存在は消える。いとも簡単に。

2つのモードを行ったり来たり


お店で店員さんに、病院で看護師さんに、「私も同じくらいの子どもがいるんですよ」と言われると、「仕事中の個人」の向こうに「子どもとセット」のその人を想像して、「あぁ、この人は今、個人モードなんだなぁ」と思う。きちっときりっとプロの仕事人に見えても、家に帰ったら猛スピードで食事を作り、どたばたと子どもを風呂に入れ、いらいらして怒ったりもするはずだ。

逆に専業主婦だからって、子どもとセットの顔しかないわけでは無い。仕事に限らず、読書や楽器や映画や絵やスポーツなどの趣味で、「個」に切り替わる人もいるだろう。単なる「お母さん」と思われがちだけれど、母親仲間の思いがけないプロ級の趣味や、意外な経歴を知って驚くことは多い。

程度や頻度、種類の差はあれ、こうやって「子どもとセット」の自分と「個」の自分を行ったり来たりしながら、皆、毎日親業をやっているわけだ。

きりっとしたスーツでベビーカーを押すお母さんが妙に格好よく見えて、あぁ、私もせめて、仕事している時の「個」な気分を高めるべく何か身につけるものを変えてみようかな、と思ったけれど、どうせ家の中だしなぁ。

「仕事専用フリース」とか? いや、もうちょっと素敵な感じに……。


狩野さやか狩野さやか
ウェブデザイナー、イラストレーター。企業や個人のサイト制作を幅広く手がける。子育てがきっかけで、子どもの発達や技能の獲得について強い興味を持ち、活動の場を広げつつある。2006年生まれの息子と夫の3人家族で東京に暮らす。リトミック研究センター認定指導者。