夏休みのデパート、売り場中に響き渡る幼児の泣き声がする。通りがかった2人組の女性が、心配して声をかけた。
「ママは? 見つからないの?」
……確かにこの瞬間だけ見たら、迷子だ。

そこへ、「すみませんっ」と戻って来たお母さん。近くで立ち話していたらしく、慣れた様子で「眠くてもうぐずぐずで……」。

声をかけた2人組はちょっと解せない表情。「泣く子を放ったままおしゃべり?」「なんですぐ対処しないんだ?」そうだよなぁ、そう思うよなぁ。

人の多い売り場のど真ん中で、という点は賛成できない。でも、ぐずる幼児。こんな風にあきらめて放っておくしかないことが、実際には多い。


子どもはよく泣き、よくぐずる


私も息子にはよく、激しくぐずられた。だっこ紐の中でエビ反りしながら、ベビーカーの中で身をよじり落ちそうになりながら、バスが発車した瞬間に「でんしゃー」と叫びながら、玄関で靴を履いて「公園にもどる~」と足踏みしながら。

やさしく声をかけたり、強く言ったり、迷惑だからバスを降りたり、その都度いろいろ対処する。でも、ひたすら泣き続け、あきらめない、疲れない、かなりしぶとい……。

とくに雑な育て方をしたわけでもなく、とくに甘やかしたわけでもなく、とくに厳しくしたわけでもなくても、子どもは、こんな風にぐずる。泣きわめく。

理詰めで対処できるか?


「小さな子でも、きちんと言って聞かせればわかるものです」という方もいる。それで済む時も、まぁ、もちろんある。でも、それでは済まない時が、確実に、ある。

そもそも、ぐずりに火がつくきっかけは、「しつけ」とか「わがまま」とかそういうキーワードで語るほどのレベルの話ではないことも多い。

息子がテレビで『いないいないばぁっ!』を見るのを楽しみにしていた頃。夕方、「もうすぐだからねー」と予告して、ようやく待望のテレビをつけたその瞬間、「カキーン」と鳴った金属バットの音。そうだ、高校野球……。

うちの唯一の録画再生機器であるVHSビデオデッキは、この前テープを吸い込んだまま動かなくなった。もはや代替手段はない……。

―― ワンワンの出てこないテレビに、子どもは泣き出す。

泣く子に向かって、とりあえず正攻法。「夏には高校野球というものがあり、その時は見られなくなる番組が多い。大変残念だが、NHKの編成の人たちが決めることなので、母にはどうすることもできない」と、一応説明を試みる。

当然、そんな理屈が受け入れられるわけもなく、その後30分以上泣き続ける息子に打つ手無し。白球を追う高校生の熱い姿を見つめながら、むしろ泣きたいのは私の方だ、と強く思った。


さて、ここで幼児が泣くことは、「わがまま」だろうか。泣かないで我慢させることが「しつけ」だろうか。……そんな大層な話ではない。

彼は『いないいないばぁっ!』が見られなかったという事実に、単に「がっかり」しているだけ。

「どんな事情があろうとも、今、ぼくは、猛烈にがっかりしているんだぁ!!!」っていうところだろう。……まぁ、ならば泣きたいよなぁ、泣くしかないよな!

子どもは表現力も未熟なわけで


小さいうちというのは、仮に言葉でのコミュニケーションが成立するようになったところで、言葉で何かを表現することは苦手だ。

例えば公園から帰ろうとしたときに、
「今日ぼくは砂場で穴を掘って水をためてトンネルも作る、というエキサイティングな手法でたっぷり楽しもうと思い描いていたのですが、なぜもう帰ろうなどと言うのですか、お母さん」とは、たいていは、言えない。本人のなかでそこまで理路整然とした自覚も、多分ない。

そして、そもそも発達の段階には、暑いとはどういうことか、眠いとはどういうことか、それすらもよくわからないフェーズがきっとある。

幼いうちは、暑さ、寒さ、痛さ、眠さ、だるさ、緊張、失望、空腹、そういう概念すら存在せず、自分の状態を類型化できていない可能性が高い。

「なんだかもやもやと全体的に不快」

ただ、それだけ。

それを表出するために、とりあえず、泣く。
それくらいしか表現手段を持たないのだろう。

何をしてもおさまらないこともある


きっかけはささいなことだ。一旦子どもの心が何かにひっかかって火がついたら、時すでに遅し。途中で気持ちを切り替えさせようとしても、とにかく、もう無理。本人も、もう途中から、半ば泣くことがテーマになって、もはや何で泣いているのかすらわからなくなっていそうだ。

こうなると、一定時間、その感情が排出されるのを待つしか無い。親のやわらかい誘導も、理詰めも、ルールの提示も、逆切れも、どれも歯が立たない。いろいろ試したけれど、こんな風に「どうにもならない時がある」、ことだけは経験的に理解した。

よし、そうやって捉えどころのない不快感を表出しているのならば、私も抵抗するまい。泣け、思い切り……と達観してみるのだけれど、その泣き声のボリュームには、ほとほと疲れる。

泣かせておくのは時と場所を選ぶけれど


家でなら、泣かせておくのは簡単だ。でも、外出先で激しく泣き続けられると、うるさいので周りに迷惑をかける。しかも、親失格と思われるんじゃないかと視線が痛く、結構、しんどい。

だから、外に出ると親はどうにか子どもをぐずらせないように必死だ。あらゆる策を講じて、ぐずりの芽を摘む努力をし、「ぐずらせないポイントをクリア」みたいになってくる。あやしくなったらラムネを口に放り込み、スマホを渡し、機嫌をつなぐのも、時に仕方ないだろう。

そういう「未然に防ぐ」努力が行き過ぎると、子どもが感情を爆発させること自体がいけないことのように思えてくるけれど、時と場所を選べば、爆発させておいてもいいはずだ。泣く子を黙らせるためだけに親が主張を曲げる必要も無い。

表現や自己認識が未熟な子どもにとって、そういう感情の爆発は、自然な表現手段で、たまには必要なことかもしれない。四六時中押さえつけることでもないだろう。

ただ、外で荒れる子を親が無関心に放っておけば、周りは気分がよくない。そこは開き直らず、なるべく迷惑にならない場所に移動したり、どうにか工夫して……。

表出の形は徐々に変わる


そういえば、小1になった息子、「感情の爆発」は明らかに減ってきた。
自分の状態を把握する力がちょっとついてきたのかもしれない。

でもその分、これからは、お腹が痛くなったり、頭が痛くなったり、学校に行きたくなくなったり、何かに悩んで殻に閉じこもったり、また、違う形で表出されてくるようになるのだろう。

それを思えば、30分一本勝負みたいな果てしなき激しい泣きわめきも、かわいいものなのかもしれない。


……いや、でも、実際あれに直面すると、うるさくてちっともかわいくないんですけどね。

狩野さやか狩野さやか
ウェブデザイナー、イラストレーター。企業や個人のサイト制作を幅広く手がける。子育てがきっかけで、子どもの発達や技能の獲得について強い興味を持ち、活動の場を広げつつある。2006年生まれの息子と夫の3人家族で東京に暮らす。リトミック研究センター認定指導者。