寒くなり始めた土曜日の午後、息子と公園に行った。
なんだか黒い、全体的に黒い……これはなんだ?と思ったら、父親と子どもの組み合わせが大多数を占めていた。大人の女性が極端に少ない。ほとんどいない。瞬間父親率、80%。

皆、淡々と小さな子どもに付き添っている。父親同士はあまり初対面で言葉を交わさない傾向にあるので、横の会話はない。ひたすら子―父、子―父、子―父……がそこにいる。「黒い」のは服装のせいだけではなく、その物静かなムードのせいもある。

砂場で一緒になった2歳児連れのお父さんに思わず、「今日は特にパパ率高いですね」と話しかけたら、「週末くらいしかできないですから」と静かに笑っていた。

ん?なんだか、ものすごく、まじめだ……。

世の中の「まじめな父たち」は、今、たぶん、けっこう「がんばっている」。


■その育児は誰のため?


そのお父さんは、「週末くらいしか『できない』」と表現した。普段「できない」育児を、週末くらいは実行しよう、とがんばっているのかもしれない。

週末くらいしか「子どもと『遊べない』」のではなくて、週末くらいしか「育児に『参加できない』」。無意識に選んだその「できない」という言葉からは、なぜか目の前の「子ども」を越えて、「妻」の存在が見えてくる。

なんだかこの8割を占める公園の父たちが、「子どもと一緒に遊びに来た」のではなく、「子どもを公園に連れ出す」役割を遂行しているように見えてきた。子どものためというより、妻のために……。

■「もう帰っていい?」の電話


昼どきの公園、携帯で「もう帰っていい?」と聞くお父さんを見かけることがある。帰る時間が早すぎても「もう帰って来ちゃったの?」となるし、遅すぎても「昼ご飯が遅くなりすぎたら困る!」と怒られるし、タイミングを計るのが重要なんだろう。

電話を切って「ママがもう帰ってきてだって」と子どもを促す。もうこうなると、100%妻のための「週末公園係」だ。

これが、今どきの「まじめに育児を担う夫」の象徴的な姿なのかもしれない。

■妻はそれを求めているのか?


あぁ、この微妙な違和感。

「妻は大変だから」「男も育児『参加』しないと」と深い理解を示し、まじめに、ひたすら妻を助ける夫。……育児を夫婦で共にやるっていうのはこういうことだったのだろうか?

妻が、そういう「言われたとおりに動く夫」を求めているのかといえば、たぶん、そうではない。夫の気持ちがもし、妻へのサービスと義務感のみで満たされているとしたら、心情的には、なんだかすごく残念だ。むしろ、なんだか嫌だ。

「妻が大変そうだから代わりに子どもを公園に連れて行かなきゃまずいなぁ……」ではなく、「子どもが遊び足りなさそうだからオレが公園に連れて行こっかなぁ……」であって欲しい。

何が必要なのかは、妻の顔でなく子どもの顔を見て判断する。そういう当事者意識が、たぶん、一番欲しい。

■追い込む妻と追い込まれる夫


でも、肝心のそういうことはなかなか夫には伝わらなくて、妻は自らの「もっとやって」発言+やり方へのダメ出し+不機嫌な言動で、結局、夫をじりじりと追い込んでしまう。

夫はいくらやっても、「そうじゃない」と言われ徒労感をつのらせ、ならば余計なことはせずに妻に言われたことだけを「正しく」こなそうという思いを強める。文句は言わず、静かに、淡々と。それが今を切り抜ける術だと信じ……。

こうして、夫は「妻のために」育児をする。

■妻は変われるか?


瞬間的に公園全体の8割を占めるほど、夫たちは育児の現場に出てきている。夫婦双方が、互いに仕事に使う時間を調整して、育児に時間を割く工夫をしはじめている。

でも、せっかくここまできても、夫のがんばりが妻に向き続ける限り、本質的に「母親が育児の中心を担う」構造は変わらない。

手足のごとく言ったとおりに動いてくれる夫こそが求めていた姿!ということなら、そのままでいいのかもしれない。でも、もし、夫が「当事者として育児する」ことを期待するなら、次に変わらなきゃいけないのは、もしかすると、妻の方だ。

妻自身も、「母親が育児の中心を担う」という意識に根深く縛られている、ということを自覚するのが、きっとスタートになる。

「別に私は自分が育児の中心だなんて全然思っていないんだけどっ!」……と、自分としては思う。でも、「夫に任せると心配」「自分でやった方が早い」「そのやり方は許せない」……ついそう思うのは、「自分の方が育児のプロなのだから勝手なやり方をするな」「侵入してくるな」と、堅く門を閉ざしているのと同じことだったりもするのだ。

自分が正解でなくていいはず、と門を開き、夫のやり方を否定しない。そうしない限り、夫は「妻のために」動き続け、育児の中心は妻のままだ。

門が開きそうなら、夫も「わからないから……」と思考の放棄は無し。妻の顔色ではなく、子どもを本気で観察する。

■精神的に対等な育児の可能性


ふたりで暮らしていたそれまでの生活に、「小さな新しい家族」が加わった時、夫婦はどちらも完璧に育児の素人同士だった。そのまま、両方が同じように試行錯誤して経験を積めば、ずっとそのまま同等だったはずだ。……でも、そんな一見簡単そうなことが、とてつもなく難しい。

夫の意識がダイレクトに子どもに向かい、夫婦が精神的に対等に育児をすること……それが、双方にとって本当により快適な状態になるのか、正直わからない。

でも、妻のためじゃなく、子どものために育児をした方が、絶対面白い。それだけは確かだ。

そこには、この上ないうれしさも、驚きも、感激も、そして、とてつもないイライラもある。それ全部まるごと、育児の醍醐味なのだから。

狩野さやか狩野さやか
ウェブデザイナー、イラストレーター。企業や個人のサイト制作を幅広く手がける。子育てがきっかけで、子どもの発達や技能の獲得について強い興味を持ち、活動の場を広げつつある。2006年生まれの息子と夫の3人家族で東京に暮らす。リトミック研究センター認定指導者。