次の2つのエピソードは、共通の特徴から起きている。

  • 妻が育児の苦労をつぶやくと、ときどき育児に参加する夫から不思議だという反応を示される。子どもも自分もこんなに楽しいのに、育児がなんでつらいのかと。

  • 1歳半ばをすぎた息子が祖父母と遊ぶときは、テンション高めで、母である私といるときより楽しそうだ。

上述の夫や祖父母がしているのは、「ハレノヒ(=ハレの日)育児」だ。
始終ニコニコ笑顔で接し、子どもがしたいことをさせ、思う存分甘えさせる育児。それが、「ハレノヒ育児」。

家庭で決めている(おやつやテレビの時間などの)独自ルールが簡単になかったものとなる。面倒をみる側の顔はもちろん、財布のヒモもゆるみやすい。無礼講満載の「祭り」なのだ。

すでに離婚している筆者としては、息子が父親と遊ぶときも、きっと「ハレノヒ育児」になるのだろう。


「ハレノヒ育児」がまねいたこんなトホホな話もある。

シングルマザーの友人は、経済的にも物理的にも文字通り「女手ひとつ」で子どもを育てていたこともあり、子どもにとって一番の存在でいたいと願っていた。

子どもが父親と遊ぶのは月1回。あろうことか、子どもが小学校で課された「楽しい思い出」の作文で、父親と遊んだ日のことを書き、彼女は大変ショックを受けた。365日、誰が毎日ご飯を食べさせて面倒をみてきたのか!とやるせなかったらしい。

がっぷり泥くさく育児をしている側からすると、「ハレノヒ育児」はまぶしくて悔しい存在だ。

おいしいとこ取りをされている気がする。恋愛で例えるならば、幼なじみで苦楽をともにし彼を支えてきたのに、突如あらわれた金持ちで苦労を知らない女性と結婚された気分。
……といったら言い過ぎか。

■「ハレノヒ育児」ができない私


「ハレノヒ育児」がうらやましい! では、うらやましいならやってみればよい。それとなしに「ハレノヒ育児」をしてみようとした。そして、数時間もたたずに、コレジャナイ感が漂う。

どうしてだろうか? 四六時中一緒にいるので、「祭り」のときのような「特別で新鮮」な感情が湧かない。甘えさせようとしても、今息子の脳内はお菓子と動画鑑賞で占められているので、要求に答え続けるのは教育やしつけ上違う。子どもと集中して遊んでいる間に溜まる家事のことが頭をよぎり、散らかすために生きているのではないかと思われるその振る舞いにため息をつく。

「ハレ」ではなく「ケ」である普段の生活のなかで「ハレノヒ育児」をすることは難しそうだ。日常と違って特別だから「ハレ」なのであって、「ハレ」ばかりだったら、それが普通となり、単なる甘やかし育児をすることになってしまう。

とはいえ、育児のつらさのひとつには、「ケ」の地味で凡庸なタスクが延々と続く日常に要因があると思う。

祭りのこない裏方作業や汚れ役ばかりをしていると、修行のような気持ちになり、耐える育児になりがちだ。子どもの成長や笑顔だけでは倒しきれない得体のしれない魔物が心にひそみ、ある日突然大暴れして、「もう限界!」と心が後の祭り状態になる。

「ハレ」と「ケ」のバランスが大事なのだろう。

■子どもとハレと自己肯定


大人になり、人並みの苦労や大事なものを失う悲しい経験をへて、「ケ」つまり「何でもないような日々」が幸せだと気づけることが素晴らしいことなのだとわかりはじめてきた。

親になったとたん、ひとりの人間が大きくなるために、しつけや教育を含めて誰かの手がこんなにもかかるのかと驚くばかりで、「ハレ」以外の重要性やありがたさが身にしみる日々をすごしている。

とはいえ、マンネリ化した「ケ」には、己の「ハレ」すら欲しくなる。大人だって欲しいのだから、子どもも欲しいだろう。子どもにとっては愛されている総量が多ければ多いほどいい。「ハレ」の日も「ケ」の日も愛されていることが大事なのだろう。子どもの「自己肯定力」は、こういうところからもつくられていきそうだ。

もし息子が楽しかった思い出の作文で、「何でもない(育児の)ようなときが幸せだったと思う」という悟りの作文を書いてきたら、そう感じる苦労をした息子の大人びた心理面がかえって心配になる……。

子どものうちは「ハレノヒ育児」を欲することが子どもらしさなのだ。

■「ハレノヒ育児」をする側の大人の事情


そして「ハレノヒ育児」をするのは、やはりハレの日だ。
ハレ度は、子どもと遊べる時間や境遇、そして自身の幼少期にうけた育児内容も影響する。

前述のシングルマザーの話も、父親は久しぶりに会った我が子に好きなことをさせて、会えていない日のぶん張り切って甘えさせたのかもしれない。

単身赴任や出張が多い親はもちろん、平日子どもの寝顔しか見られなかった親は、せっかく一緒に過ごせる時間は子どもに特別なことをしてあげる。

幼少期に「ハレノヒ育児」がなくさみしい思いをしたから、我が子に対して自身のして欲しかった「ハレノヒ育児」をしているケース。

どのくらい自分が生きているうちに孫に会えるのか、親としての責任から解放され、純粋に子どもと遊べる時間を心待ちにしている祖父母たち。子どもと遊びにいった思い出の場所を通りすがるだけで、仕事を頑張る気力が湧く、という知人もいる。

会えない時間に愛おしさが積もり、子どもと遊べるときに特別な気持ちで接する。
幼い子どもにとっては、「ハレノヒ育児」は単なるボーナスステージだけれど、「ハレノヒ育児」をする側はさまざまな大人の事情でその子に特別なことを施している。その「ハレノヒ育児」をした側も、格別で豊かな思い出として胸に刻まれる。

世の中には虐待の連鎖や無関心、祖父母や親が存在しないケースもある。「ハレノヒ育児」をしてもらえること自体、特別なことなのかもしれない。大人にとっても子どもにとっても「ハレノヒ育児」は大事なのだ。

■「ハレノヒ育児」をあきらめない


ただ、子どもの日常をみる養育者が「ハレノヒ育児」をすることは簡単じゃなさそうだ。だからこそ、息子の父親や祖父母、友人、いろいろな人の「ハレノヒ育児」を積極的に受け入れようと思う。大事だと納得し、主体的にお願いする心持ちになれば、「ハレノヒ育児」に対するまぶしさはうすらぐのではないか。

とはいえ、自身の「ハレノヒ育児」もあきらめないでいたい。耐える育児から脱し、心身ともに健全な育児により近づいていたいと思う。

「ハレノヒ育児」は特別感が重要だ。ときどきしか育児をしなければ、それだけで特別感が出る。「ケ」の育児も担当している側で特別感を工夫できるとしたら、それは「場所」だろう。

特別な場所、といっても遠出しなくてもとなり駅の知らない場所でもいい。日常を忘れられる場所で、新鮮な気持ちで子どもと向き合ってみるとか。

日程を決め、心と財布のヒモを少しだけゆるめ、子どもの好きな物片手に遊びに出かけたい。正真正銘の「ハレノヒ育児」になれなくても、プチ「ハレノヒ育児」ぐらいまではいけそうだ。

そしていつかは、子どもをとりまく大人たち全員で「ハレノヒ育児」を交代しあうような関係を構築して、バランスのよい「ハレ」と「ケ」の子育てをしていきたい。

福井 万里福井 万里
大学卒業後、大手システムインテグレータでSEとして10年間勤務も、東日本大震災を機に、本当にやりたいこと(書くこと)を生きがいにと決意し退職。2012年に結婚&長男を出産するも2013年に離婚、シングルマザーに。ライターとして活動を開始。