その時、20代ママの私にとって、幼稚園の園庭は戦場だった

「あなた、干支は何年(なにどし)?」

それは私が26歳、長女4歳の春。入園したての幼稚園年少組の懇談会で、同じクラスのベテランママ(?)からかけられた、衝撃の一言だった。

え、干支で年齢を探られるのって新鮮だなぁ……。そうきたかー、さすが人生のセンパイたちは、いろんなスキルを持ってるなぁ……(憔悴)。

「えっと……丑年(うしどし)です」と返事を絞り出すと、センパイたちは色めき立った。

「あらやだどうしよう?! 私も丑年なのよ、ひとまわり違うんですって!」
「やだ、私なんてひとまわり以上よ~、一気に年取った気分よ~」
「だって肌つやが違うものねぇ、ピチピチしてるわよ」
「若いもんねぇ、初めて見たときは新しく入った先生かと思ったわ」

18年前、22歳で母親になった。それも学生結婚、学生出産で、親や親戚はもちろん、周囲は当時大騒ぎだった。

その日以来の私はずっと、「若いお母さんねー」と、公園で商店街で病院で、含みのある微笑で声をかけられ続けた。

ご近所や子どもの遊び場、習い事や園など、周りで知り合う「ママ友」は、ほとんどがバブル組。当時、一世を風靡した「トレンディドラマ」をなぞって、30歳を目前にした29歳で結婚退職して、30代前半で出産、だから1人目の子どもを育てているママ友は、大抵アラフォーで、2人目や3人目ともなると、オーバー40だった。そして、もれなく専業主婦であった。

娘が入った幼稚園はいわゆるお受験幼稚園で、授業料が高い分、親のステータスがちょっと高い。みんな余裕もあるがプライドもある。

その頃の日本はバブル崩壊後の不況まっただ中だったが、彼女たちの「私がOLのころはね」の話は、それなりに(当時)ステータスの高い企業の一般職OLとしてブイブイ言わせていた時代のレトロ感を醸していた。

「受付嬢」「秘書室」「国際線スチュワーデス」「私はグランドホステス(航空会社地上職)」「有名人の誰々と合コン」「医者弁護士一流企業ビジネスマン」「ハワイグアム」「ジュリアナのお立ち台」「イタリアブランド(特にアルマーニ)」……など、いま思えば懐かしくて涙が出るようなキーワードが満載で、ママ友話の最後は「バブルはよかったよねー」だった。

バブルなんて中高生時代だったから蚊帳の外、大学を卒業してそのまま「お母さん」になってしまったバブル崩壊後の氷河期の私にとっては、きらびやかな過去のバブル話は興味深くはあるけれど、正直他人事。「危ういなぁ」「薄っぺらいなぁ……」との感想は決して口に出してはいなかったけれど、若さゆえに顔に出てしまっていたのだろう。

どう努力してもそりが合わないタイプのお母さんに、「まぁ、若さは『バカさ』だって、私も昔上司に言われたもんよー」と当てこすられた日から目も合わせてもらえなくなり、なかなかのストレスで手が震え、顔が引きつる症状に悩まされてもみた。


世代がひとまわりもふたまわりも違うというのに、「たまたま同い年、同じクラスになった子どもの母である」ただ一点だけを手がかりに、付き合うということ。横割りの「層」で育つ日本で、特にファッション誌の影響で「ワタシたち」の共通項意識が強かった女性たちの中で、同じ時代に育たない私は、異物以外の何ものでもなかった。

私の言葉や振る舞い、身につける服さえも、いろいろな話題を提供していたのだろう。やはり勉強やキャリアを諦めることができずに資格学校に通って武装したり、当然のスキルとしてインターネットを使ったり(Windows95の時代)、仕事を始めたりする私の姿は、創刊当時の『VERY』をこぞって読み、ショッピングと日々の高級ランチに勤しむ「コマダム」の彼女たちにすれば、「何、あれ?」。

かなりガンバっていろいろな場所へお付き合いし、適応していたつもりだが、今その時の人間関係がほとんど残っていないことを考えると、やはり無理があったのかもしれない。

毎日、「これは社会勉強だ」と思っていた。人間観察だと言い聞かせた。送り迎えがてら、小綺麗なファッションに身を包んだ母親たちがズラリと並んで、笑いさざめく幼稚園の園庭は、私にとっては戦場だった。

その思い詰めっぷりから察せられるように、私は完全に参ってしまって、肺炎を通り越して胸膜炎で寝込み、過呼吸やらパニック発作も起こして、いよいよ無理ゲーを実感する。


子育ての始めの6~7年はそんな感じだったから、自分が30歳になったときは本当に嬉しかった。
40代と20代ではあまりに差が開きすぎの印象を与えてしまうけれど、40代と30代なら、ちょっと年下くらいでごまかせるかもしれない。

ママ友の集まりで、「来月30になるんです」と言ったら、
「えー、とうとうあなたも30になるのねー。アタシたちが老けるわけよねー」
「ま、30なんてしょせん小台(こだい)よ。ホントの大台は40だもん」
とやられ、そうか年齢差は絶対的なもので、もうどうやっても越えられないヒマラヤか、と疲れ切った顔で微笑んだ。

そんな彼女たちの間で「みそっかす」として揉まれたおかげで、つい最近まで自分は若いと信じ込んだまま、18年やってきてしまった。

そしたらある日、ノーメイクの自分の顔を鏡で見てギョッとする。巷では知らない芸能人やバンドやファッション用語が飛び交っている。どんどん自分の世代や下の世代が、「子育て界」に足を踏み入れてきてくれて、気がつけば私はあのころの「彼女たち」と同じ年。もう、うれしいったらない。これでもう「若いママねー」って言われなくて済むんだ!


すると、時を前後してあの「彼女たち」が鳴りをひそめておとなしくなった。あれだけキャーキャー甲高く群れて活動的で消費を牽引した彼女たちは、いま更年期に苦しんでいる。子どもの手が離れ始めると同時に、婦人科系の病気や更年期や老親の介護、夫の病気や浮気や離婚……、いろいろな波が一斉に彼女たちを襲った。

ものすごく久しぶりに街で見かける彼女たちは、あの頃の面影を残す人もいれば、見る影もない人もいる。肌つやや髪の毛のコシやボリュームが目に見えて失われ、体型が変わるとシルエットもファッションも変わり、あまりの変貌ぶりにびっくりすることもある。

心の中で、「老けたな……」と思ってしまう。同じ時を私だって送っていて、同じように「老けたわねぇ、あの子」って思われているんだろうけれど。


すっかり落ち着いてしまった彼女たちに、共通点を持たなかった私は、今やっと「あぁ、私たちはあの時代の子育てを共有したんだ」と思える。戦友……とはあまりにおこがましいが、視界の片隅くらいにはいさせてもらえるかな。

目の上のたんこぶだったり、大ッ嫌いだったり、憧れだったり、劣等感の対象だったり、色々な気持ちがあった。「自分が40代になっても、ぜっっったいコイツみたいな女にはならない!」と心の中で呪ったことも多々あった。一方であの頃、「あぁ私、自分が40代になったら、この人みたいになりたい」と思った姿に、いまの私はなれているだろうか。

子どもがたまたま同い年、ということだけを共通点に、20歳近くの年齢の開きがある母親たちが、それまでの経歴や出身や趣味趣向、まるで関係なしに集い、集わされる。そこにジェネレーションギャップや価値観の違いが「ないわけがない」。同じ世代だって好き嫌いや合う合わないでもめるのに!

だから、「違う」こと前提でコミュニケーションをするといいのだ。
相手がなぜそんなことを言うのか、するのか、「なぜだろう」と知的好奇心をはたらかせると、自分の側でグングンと「人間プロファイルデータベース」が育っていくのがわかる。

人間関係は、誰が相手でもつまずき転ぶ可能性がある。だから、転ぶならただで転んじゃいけない。そうやって人間データベースを厚くして、子ども同士の関係が終わってもまだ続くような親同士の関係ができたら、それは「ママ友」ではなくてあなたの「友人」なのだ。

河崎環河崎環
コラムニスト。子育て系人気サイト運営・執筆後、教育・家族問題、父親の育児参加、世界の子育て文化から商品デザイン・書籍評論まで多彩な執筆を続けており、エッセイや子育て相談にも定評がある。家族とともに欧州2ヵ国の駐在経験。