「もういいよっ、どうせ聞く気ないんでしょ、何度言ったって無駄なんだから! もう勝手にしなよ! だいたいいつもさ……そもそも自分の事に責任持ちなよ……」

あぁ、今日は朝からやってしまった。
これが母から子への苛立ちに満ちた言葉のスタートだ。そして理詰めの追及が延々と続く。



■母が子を正論で追い込む


子どもを大人が正論で追い込むのは実に簡単だ。圧倒的に大人が強い。

正論は人を追い込みすぎること、時に現実的でないことを知っているから、通常の人間関係でそれを振りかざさないよう、結構気をつける。でも、子ども相手にこれが止まらない。

自分の満足行くところまで徹底的に言葉で追い込み、子どもが理解できる範囲はとっくに超え何の効果も生まない……母親自身、こんなアプローチが最悪なのは100%自覚している。まったく大人気ない。

そんな妻を目撃して、「これはヤバイ、どうなってるんだ?」と当惑し、逃げるように出勤する夫の皆さんもきっと多いだろう。

これが子どもの日常だとしたらきつい。逃げ場がない。だけど、親は実に簡単にここに落っこちる。

■乳児のうちはこうならない ―― 身体的イライラ


子どもが0~2才くらいの頃は、耐えず眠いし、自分の時間はゼロで、家事はまったくはかどらない。そういう「身体的イライラ」に支配されるものだ。

でも、言葉で子どもを追い込むような事態には陥らないで済む。

この年頃の子どもは、明らかに小さくて弱々しく、大人がいなければとても生命を維持できそうもない。自分は「完全な保護者」であり、子どもと「対等」ではないので、そもそもイライラをぶつける対象にすらならないのだ。

苛立ちの矛先は、自分自身や夫、周りの大人に向けられ、夫婦関係、祖父母関係の問題として処理されていく。

■言葉を喋るようになったら注意せよ!


乳児の母であるうちは到底信じられないかもしれないが、これがいつの間にか変わってくるのだ。

私も息子が赤ちゃん然としている頃は、小さい子どもを言葉で追い込むお母さんを見かけると、「余裕無いのかなぁ」くらいに思っていた。まさか自分が、その手の態度を取るようになるとは思いもせずに……。

変化は「言葉」の発達とともにやってくる。

■対等な人間関係 ―― 言語的イライラ


不思議なもので、子どもが言葉を喋るようになり、最低限のやりとりが成立するようになると、急に「人格」を感じ始める。

親は、言語という共通ツールを得た途端、守る‐守られる親子関係を、急激に「人対人」の対等な人間関係に昇格させてしまうのだ。

それまでは、「保護者である私の問題/責任」だったことが、「あなた自身の問題/責任」にすりかわる。

ちょうど、基本的生活習慣を身につけさせるので必死な時期。繰り返し失敗して、汚れて、泣いて、ぐずって……どんなに丁寧にかみ砕いてアプローチしたって、小さな習慣のひとつひとつは、そう簡単には身につかない。

そのうちイライラがつのり、「なぜやらないの」「さっき同じこと言ったよね」……そんな言葉が「対等」になった子どもに直接投げかけられる。「言語的イライラ」の始まりだ。

■そこに「社会」はない ―― 危険な力関係


さらにいけないことに、人対人の関係に昇格したのに、そこには完全に「社会」が欠如している。多くの乳幼児育児中の母子の関係は、あまりに偏っていて特殊だ。

(1)批判されない ―― 家庭に他人の目はない。
(2)関係が完全に固定 ―― 母子は常に一緒で離れられない。
(3)反論・反撃されない ―― 母子の言語能力と腕力に圧倒的な差がある。
(4)拒絶・逃走されない ―― 幼い子の母親に対する信頼は恐ろしいほど絶対的。

こんな、圧倒的な力の差と閉じた関係を、実際の社会で経験したことがあるだろうか。こんな条件下で「うまくいかないことばかり」続いたら、果たして相手に対し「正しい態度」で接し続けることができるだろうか。

人はそこまで強くない、と、私は思う。

あふれ出る言葉に歯止めが効かない……。良くないと思っていても繰り返す……。
そんな負の循環をして当然の、あまりに偏った構造がそこにある。

■「たまに」で済んでいるうちに……


最初は「たまに」で、済む。たまに異常に長く苛立った説教をしてしまうくらいなら、まぁ、これはもう、人間感情に波がありますから母もね……たまにはね……、でいいのかな、とも思う。

でも、それが「いつも」になり、果ては手が出る恐怖政治につながらないと、誰が自信を持って言えるだろうか。ニュースで見て「ありえない」と思っているような結末が、意外と自分のすぐそばに控えているかもしれない。

全力で踏みとどまらなければいけないラインがある。

■反省より、危険の自覚からスタート


あぁ、またやっちゃったな、自分はダメだな……と後悔と反省を繰り返しても、多分事態は変わらない。「怒鳴る前に深呼吸」の魔法が効くなら楽なものだ。

むしろ「歯止めがきかなくて当然」な厳しい条件下に自分がいるという自覚からスタートした方がいい。

自分自身の「心」が駄目なのではなく、自分が「極めて危険な構造」のど真ん中にいるだけなのだ。それをはっきり自覚して初めて、阻止する対策が取れる。

■何ができる?


この「危険な構造」にゆらぎを与えることを、抑止力にできないだろうか。

子どもと離れる時間を作る。乳幼児の遊びスペースに出かける。託児付きの講座に通う。誰かにヘルプに来てもらう。……そういう「いつもの母子関係」に何でもいいから「変化」を加える。

今朝、やっちゃったなぁと思った私は、いつものルールを変えてみた。
学童クラブに息子を送ったあと、気持ちをひきずりそうだったから、いつもなら家でする仕事をカフェでやることにした。

隣に他人がいて、「充電いいですか?」と声をかける人がいて、「今打ち合わせ中なんで」と電話で嘘の言い訳をしている人がいて……そういう普通の「社会」を肌で感じると、いかに自分と子どもの関係が固定的で閉鎖的で危険か、ということに気づく。

落とし穴に落ちるな、自分の帝国にするな、息子のレベルは今どこだ? 普通の人間関係ならどう表現した?……。

小さなきっかけだけれど、とりあえず、夕方は言葉で追い込まずに息子と過ごせた。

■周りは何ができる? 夫ができるアプローチ


妻の理詰めの説教が異常に見えたとき、夫が仲裁したり諭したりしても「わかってる!」できっと無駄に終わる。子どもを守ろうと妻を怒鳴りつけたり、妻と一緒に子どもを叱るのも「わかってない!」と心を閉ざすだけだろう。

そういう直球の「介入」じゃなく、むしろ必要なのは「危険な構造」からの救出作戦。母子の固定した関係を積極的に崩しにかかるのはどうだろう?

家事や子どもの相手のうち「いつもの妻の役割」を少しずつランダムに交代するだけでも、パターンが崩れ構造は少しゆらぐ。

母の怒りにさらされた子どもと戦いごっこでもして発散させるとか、「お母さん疲れてるみたいでひどく怒ってたね、今のはきつかったね、でも、○○をしなかったのはいけないことだよ」と、穏やかに気持ち受け止め係をするとか。

その後きっと自己嫌悪に陥る妻にコンビニでプリンを買ってくるとか、「ちょっとコーヒーでも飲んで来たら」と送り出すとか。

……一見関係なさそうな側面からのフォローが、母子完結の負の循環に小さな切れ目を入れるかもしれない。

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自分は反省や後悔じゃなく、周りは介入や説教じゃなく、できる「対策」がきっとある。
問題は「人」にあるんじゃない、「構造」の方にきっとある。

狩野さやか狩野さやか
ウェブデザイナー、イラストレーター。企業や個人のサイト制作を幅広く手がける。子育てがきっかけで、子どもの発達や技能の獲得について強い興味を持ち、活動の場を広げつつある。2006年生まれの息子と夫の3人家族で東京に暮らす。リトミック研究センター認定指導者。