話題になってからずいぶん遅れて最後の数回だけ、ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』を見た。最終回も見逃し配信でようやく見た。今どきの家事分担夫婦がぶつかる壁をきれいに見せてくれた最終回、放送後の友人からの熱いメッセージや、SNSで見かけた声の理由はこれだったのか、と後付けで、納得した。

ドラマは、ひとり暮らしの男性・津崎平匡(つざき ひらまさ)[演・星野源]と、そこに家事代行で雇われた女性・森山みくり[演・新垣結衣]の関係が、「契約結婚」という形を取りながら淡々としたトーンで描かれるコメディ。家事に仕事としての対価が支払われる雇用関係から恋愛らしきものに変化し、雇用関係の解消とリアルな結婚という新たな関係が検討課題になったあたりでの、最終回だった。
<※筋に触れるので、これから観る方は視聴後に読んでください。>


■「分担てけっこうやっかい」


女性の家事労働を当然と思うべきではない、金銭に換算したらどれだけの労働力か……という話は、もうずいぶんと繰り返されてきた。でも、そこをロジカルに捉えて実際に家事労働を分け合い始めた夫婦たちは今、また別の“気持ちの問題”に直面している。

仮に机上で分担がきれいにできても、「こっちのほうが!」「そっちはさぁ……」という机の下での蹴り合いみたいなことが、日々起きてしまうのが現実だ。

ドラマでは、みくりが発した専業主婦の家事労働への対価のなさに対する疑問は、平匡にあっさり理解・共有され、ここは、共に収入を得て家事分担をしようと軽やかに解決する。

そう、今の若い夫婦たちは案外簡単にここは超えられたりする。問題はこの先だ。ドラマでも、ここからがクローズアップされる。

ふたりは、共働きでの家事分担を試す過程で率直な感想を交わす。

みくりは収入の差が大きいので、自分の家事負担が多いこと自体には納得している。でも、平匡がやり忘れたりすると、「それそっちの仕事だよね」と自分の負担量との差に目がいってしまう。

平匡は本音ではできればやりたくないけれど、そこは理屈で超えて分担に納得している。でも、
・相手ができていないとマイナスに感じる
・相手がやっても当然と思い感謝の気持ちが持てない
……という分担体制ならではの現象に気付き、「分担てけっこうやっかいだな」と表現する。

これらはまさに、家事分担夫婦のほぼ定型的な気持ちの壁。ドラマでは設定上極めて淡々としたトーンで意見交換がされるのだけれど、現実の夫婦なら、眉間にシワが寄り感情が入り込んで、簡単に喧嘩になりそうだ。

■“家事の質の低下”をどうみるか


平匡は、みくりの“掃除の質の低下”が気になると言う。

家事代行でやっていた時にはホコリや水垢はなかったのに、なぜ?と素朴に思う彼に、みくりは、あれは「仕事だったから完璧にしなければ」と思っていただけで、自分は本来「生活に困らない程度に綺麗なら生きていける」と思っているのだと説明する。

“雇用関係でやる家事”と“生活のための家事”の質の変化をうまく見せたこのシチュエーションをどうとらえるかは、家事分担夫婦にはすごく重要だと思う。

女性が使命感を持って専業主婦をこなし家事のクオリティを維持した世代が、家事の“労働”としての価値を見よ!と主張するのは間違っていない。ただ、そこに労働としての価値を求める時、その“質”は重要な要素になり、“家事の質の低下”は大きな問題だ。

この視点を今どきの家事分担夫婦が採用してしまうと、“家事のクオリティを下げそびれる”という落とし穴にはまる。

ふたりで50%ずつのリソースを出し合うとか外部の手を借りるとかすればできるはず……と、上を目指しがちで、家事の“質の低下”や、自分と相手の家事の“質の差”は受け入れ難いものになり、互いを評価し合う構造を作り出してしまう。

仕事としての家事と、生活のための家事っていうのは本質的に違っていいんじゃない?もっと適当でいいんじゃない?というところには、なかなか向かえないのだ。

■極端な前向きさや解決法は効果なし


ドラマで気持ちの壁にぶつかったふたりは、

・相手を積極的に評価する仕組みが必要かも?
・いっそ役割分担やめて自分のことは自分でやるようにする?
・じゃあ家事全部私がやるけれどボランティアで仕事じゃないからやってなくても文句は言わないで!

……と、いくつかの極端な解決策らしきものを出しっぱなしたまま空中分解しかける。

ここに上がったどの発想も、家事分担夫婦なら身に覚えのある“極端な前向きさ”とか、“あぁもうめんどくさい!だったらやめちまえ!”的発想じゃないだろうか。ぶつかるのはいちいちめんどうで、しんどい。すっきりさせたい。

でも、ロジカルに解決しようとして、無用な厳密さや透明性を追求しすぎることは、たいてい事態を悪化させる。

■「生きていくのはめんどうくさい」からこそ……


ドラマで膠着した状況を動かしたのも、ロジカルな対策ではなかった。

平匡は、生活に必要な“めんどう”を外注して排除する側から自分で受け入れる側に変化した。ひとりでもふたりでも、「生きていくのはめんどうくさい」のだから、“一緒にいるのも手 ”、“だましだまし”やっていけたら、とゆるく構え、極めてフラットな感覚でみくりの横に並ぼうとしたことが、閉じこもる彼女を動かした。

そして、「ぼくはみくりさんのことを下に見たことはない」というフェアな態度が、ふたりの信頼感のベースになった。

なんだそんなこと?って思うかもしれないけれど、そういう横並びの“同志”っぽさって重要で、そこを確認しあえたらどうにかなっちゃうことが、夫婦の周辺にはゴロゴロしているような気がする。

なのに、こういうことは夫婦で口に出すのもなんとなく恥ずかしくて、あまり表現することもない。寄り添うつもりで、実際には上から手を差し伸べたりアドバイスしたり、うっかり“横並び”じゃない関係を作りやすい。

この先どんな形でもいい、「模索は続きます」「そうですね、続けていきましょう」とだけ確認し合うふたりはとっても“横並び”で、ものすごく柔軟で、自分たちのスタイルを作ればいいというゆるい決意に満ちていた。

■『夫婦を超えてゆけ』!


ドラマの中のふたりが何か特別に新しいことをしているのではなくて、実のところ、今の時代に仕事も家事も共有しようとしている夫婦にとっては、夫婦でいること自体が、まるごと、これまでの夫婦像を超えていく営みだったりする。そうやって新しいスタイルを作り出すのってけっこう大変だ。

エネルギーを振り絞ってひたすら柔軟に模索し続けるには、お互いが“同志”で“横並び”であることを確認しあえるのが、一番大切なのかもしれない。

“恋ダンス”が話題になった主題歌のとおり、『一人を超えて』二人になり、『二人を超えて』夫婦になったのだから、『夫婦を超えてゆけ』……。「夫婦になる」んじゃなくて、『夫婦を超えてゆけ』っていうフレーズ、適度な無責任さと力強さがあって、いいなぁ。



まだまだこの先長く続くふたり人生、ロジカルな対策を重ねるばかりでなく、ドラマに出てくる≪火曜はハグの日≫みたいな“単なる定型”の方が意外と効果的かもしれないぞ、と、最近ようやく思ったりもしている。

狩野さやか狩野さやか
Studio947でデザイナーとしてウェブやアプリの制作に携わる。自身の子育てがきっかけで、子育てやそれに伴う親の問題について興味を持ち、現在「patomato」を主宰しワークショップを行うほか、「ict-toolbox」ではICT教育系の情報発信も。2006年生まれの息子と夫の3人で東京に暮らす。リトミック研究センター認定指導者資格有り。