このところの旅行の記憶といえば、もう100%子どもの行きたいところばかりが続いている。今年も行った先のメインは鉄道系の博物館。幸運にも本物の運転士さんがシミュレーターのエリアに来てくれる日だったらしく、息子が運転体験をしている様子を見守りながら、私は運転士の仕事や訓練などについていろいろと話を聞かせてもらえてしまった。

■自分でも意外だった根強い性別フィルター


体験時間が終わって「本物の運転士さんだって!すごいね~」と息子に言ったら、その運転士さんが、「あ、こちらも運転士です」と、息子の横で操作方法を指導してくれていた方を紹介する。おぉそうだったのか!となんだかバツが悪い。

ふたりとも運転士だなんて思わなかったとか、制服が同種に見えなかったいうのもあるけれど、もっと理由があった。その方は女性だったのだ。

今私が話している人は運転士、ということは、息子についてくれている「女性」は、教えてくれるスタッフ系の人なのか車掌さんとかなのかな……。そういう判断をなんとなくしていた。あぁ、私は確実にこの人を「女性」というフィルターで見ていたんだ。その自分の先入観にガツンと気づかされて、ちょっとショックだった。

そしてやたら「女性の運転士!かっこいい」的な反応をする自分がまたなんだか嫌になってしまう。

男とか女とか、生物として違うとはいえ、社会的な役割に関しては極力フラットでいたい、と常々思っているのだけれど、自分の根っこにはりついている、「女だから……ではない」とか「女なのに……ですごい」という感覚に、いまだにびっくりするほど左右されていることに改めて気づかされてしまった。


■平等志向のつもりが「越境」しているだけだった


団塊ジュニア世代の私が子どもの頃は、「女のくせに」という言い方はごく普通にあったし、「女の子なのにすごいね」というプラス評価にも上乗せ感があった。男女の役割イメージがはっきりしていることの居心地の悪さも居心地の良さも、どっちも共存していたと思う。そして、「男のくせに」とか「男子なのに……」と言い放ったことも、間違いなくあった。

私は男女同等でいたかったし、「女だから○○しなくていい」みたいなのは嫌だと思っていたけれど、幸い抑圧されるというより、のびのび活動できる場の方が多かったせいもあって、男女の社会的役割イメージの枠と「戦う」という感覚はなくて、「気にしない」とか「飛び越える」とかそういう感覚だった。

就職活動の頃にはさすがに女子学生としてかなりあからさまに不利な扱いを受けたのだけれど、「男性と同様に働けます」という宣言をしていただけで、がんばる方向性は、「私は女ですが男性側の社会的役割に入れますよ」という「越境」的な発想だったように思う。

今思えば、こういう態度っていうのは、男女の性別役割分業意識の基盤からちっとも離れていなかった。社会的役割の境界線はそのまま放置していて、その線を越える宣言をしているだけ。

そして、時間と体力があるうちは、それができてしまう。気合いとか根性で乗り切るよくないパターンだ。

■子育ては「越境」的感覚では太刀打ちできない!!


妊娠出産子育てで、ようやく、本当の壁に直面した。

こういう「越境」的な感覚で「子育ても仕事も」こなそうとすると、男性側の社会的役割でやりたいことと女性側の社会的役割でやりたいことを両立しようとするから、あっという間にどっちも中途半端にしかできない状態に直面する。「不十分な自分」と向き合い焦燥感とイライラに満たされるだけだ。

普通に考えて、フルパワーで仕事だけ、フルパワーで育児家事だけが主流だった時代に醸成された男女の社会的役割のレベルに、それぞれ半分の時間とパワーで太刀打ちできるわけがない。自分の中でまずその役割イメージを壊す必要がある。

女性だけでなく、男性だって両方やるには発想を変えないとすぐ壁にぶつかる。

自分が女性とか母としてやりたいなぁと持っているイメージの結構な分量を諦めて捨てるしかないし、男性の側が背負っている男の責任とかイメージみたいなものを放棄してもらわなきゃならない。お互い背負っているのかやりたいだけなのかわからないけれど、そのイメージを捨てちゃう段階が必要だ。

越境ラインがあると、「男なんだからきっちり稼いでよ/稼がなきゃ」、「女なんだからきっちり家のことをやってよ/やらないと」という要求や自己評価になるし、「こっちは『本来の役割じゃないこと』までやっているのに……」と対決姿勢になりやすい。

そうやってラインを挟んで争っている場合では無くて、男女とも両側から境界を消して、ふたりのパワーと時間を再配分しないとやっていけない。

相手に変化を求めるだけでなく、その分だけ自分も変わらなければならないことがいっぱいあって、けっこうしんどい作業。でもそうやって社会的な役割については、なるべくボーダーレスでフラットに考えようとしてきたつもりだった。


……のはずなのに、冒頭の博物館で、あぁ、こんな女性フィルターでものを見ていたなんて!と、気づかされ、なんだかちょっとがっくりしてしまった。

■中途半端でもいいのかも


きっと、ボーダーレスな感覚100%の人もいるだろうけれど、私の場合は真にフラットな感覚へはまだ遠いようだ。

そういえば、息子にも、普段は「女だからとか男だからとかそういうのおかしいよ」とやたら言うくせに、それでも何かの拍子に「男なんだからさ」とか、「そういうの女の子に嫌がられるよ」とか、男女のイメージ的なカテゴリーにはめた言い方をしてしまうこともある。

頭ではフラットに!と思っていても、けんかしたり疲れすぎたりすれば、なんだか面倒になって、もういっそ男女できっちり役割分けちゃった方が楽かも……と引っ張られそうにもなることだって、まぁ、ある。

なんとも中途半端でかっこわるい。

でも、新しい形を作って行くっていうのは、どこかですぱっと新ルールに頭を切り替えられるわけじゃなくて、こんなふうにどこか中途半端な状態をだらだらと抱えたまま変化していくものなのかもしれない。

そうありたいと思い続けていることがとりあえず重要。

中途半端だからダメだとかやめてしまうんではなく、中途半端でもいいから意識し続けたいな、と思う。

狩野さやか狩野さやか
Studio947でデザイナーとしてウェブやアプリの制作に携わる。自身の子育てがきっかけで、子育てやそれに伴う親の問題について興味を持ち、現在「patomato」を主宰しワークショップを行うほか、「ict-toolbox」ではICT教育系の情報発信も。2006年生まれの息子と夫の3人で東京に暮らす。リトミック研究センター認定指導者資格有り。