「子どもができたら妻には家にいてほしいので……。」
「自分の子どものことをよく知らない保育士に育てられたくないって思っていて。」
「僕はお母さんが家にいてめちゃくちゃよかったので、母親が家をしっかり見ていてほしいです。」
「子どもがある程度の年齢になるまではつきっきりでいてほしい。矛盾ですけど、奥さんには好きなことをやって輝いてほしい。でも家にはいてほしいです。」

こんな発言を聞いて、どんなことを思うだろうか。実はこれ、昨年末に朝日新聞DIALOGに掲載された「男子のホンネ座談会」から抜粋した、20代前半男性のリアルな発言だ。

おそらくこの引用部分だけでげんなりしたり怒りたくなった人もいると思うのだけれど、できればこのコラムを読んだ後にでも、前後編、なるべくフラットな気持ちで読んでみて欲しい。

「男子のホンネ座談会」【前編】
http://www.asahi.com/dialog/articles/00003/00001/
「男子のホンネ座談会」【後編】
http://www.asahi.com/dialog/articles/00003/00002/

■「育児と家事は女性の役割&責任」がこうも根強いとは!!


これが50代60代の男性の発言なら「世代がね……」と思えるけれど、これは大学生を含む20代の男性。正直に言えば私も一瞬かなり面食らった。「育児と家事は基本的には女性の役割」という大前提がちっとも過去のものになっていなくて、こうも「若い人たち」の頭の中にがっちり入っているとは……。

こんな発言も出てくる。
「世の中って自分の好きなことだけできるわけじゃないですよね。仕事も子育ても好きだから、責任を持って両立させるって言ったのに、やらないのはダメじゃないですか。」
「自分のほうが年収低くても、僕は仕事をしていたい。わがままかもしれないけど、そんな状況なら、『じゃあ俺が頑張って、もっと稼ぐから!』と言って、奥さんには家庭を見てもらいたい」

共働きをイメージしている参加者でも、男の自分は家庭の側に含まれていない。
「子どもができたら、父方か母方の親に手伝ってもらいながら共働き、というのもありかなと思ってます。」

いやいやいや、そりゃないでしょ、なんで女だけが両立を求められる? 男が外で仕事をすることは女が外で仕事をすることよりつねに価値が上なの? 女の能力は家庭内で使用するものなの?……そんな怒りの声が聞こえてきそうだ。

「育児と家事は女性の役割&責任」という大前提が、猛烈に、強烈に、強い。

■しかし彼らに悪気はない。むしろ私にも身に覚えが……


ここで、この座談会のメンバーを「あまりに前時代的だ!」と怒りにまかせてこき下ろしたり、「よく稼げる父親と専業の母に手もお金もかけて育ててもらえた男子の典型的なパターンだよね」と突き放し笑い飛ばして終わるのは簡単なことだ。

でもこれ、彼らのせいにできるほど他人事ではない。

全部読み通して私がぞわぞわチクチクしてしまったのは、彼らの言っていることの何割かは、私自身が学生の頃にまったく同じように思っていたことじゃないか、と気づいてしまったからだ。

私は確かに思っていた。仕事の手は抜きたくないとか、仕事を本気でやりながら家事とか育児同時には無理だろうから妊娠を急ぐことはないとか、稼ぎがいい方が働いて一方は家のことをやった方が効率がいいとか、でももし子どもがいたらばなるべく自分で面倒みたいとか……計画性も現実性もあまりに乏しくて、そこにはやる気と身近な事例と理想しかない。女視点のふりして男視点で問題を先送りしている感じだ。

座談会の彼らが「男だから」イキのいいことを好き勝手に言っているのではなくて、女の私だって大学生の頃なんて似たようなものだったんだよな……。

■「親になる」って頭をぶん殴られるような感じ


彼らと同類だったはずの私が、なんで今は彼らの発言にげんなりするかといえば、私が親になって変わったからだ。「変わった」と言っても、自分の意志でしなやかに変わったなんて素敵なことではなくて、置かれた状況で変わらざるをえなかったと言った方が正確だろう。

「親になる」って、予定外で予測外のことだらけで、未知すぎて頭をぶん殴られ続けるような感じだと思うのだ。堅かった考え方をぶち壊して柔らかくしなければ対応できないし、それまでの考え方をごっそり組み直さなきゃならないこともある。人生の予定なんて自分の都合で立てられないんだぞってことを知る。

「親になる」っていうのは、ふわふわしたパステルカラーの出来事ではなくて、そうやって頭をガツンと殴られるような現実にぶつかり、仕方なく柔軟性を身につけていく過程そのものだったりする。

座談会の彼らも、そんな現実にぶつからなければ、今言っていることのナンセンスさがわからなくても仕方ないのかもしれない。私を含め多くの母になった女性がそうであるように、実際にぶつかれば、自ずと「わからざるをえない」ことなんだろう。

ところが、だ。このマインドのまま彼らが家事や育児に関してずっと外側にい続けたら、仮に結婚して子どもに恵まれたとしても、頭を殴られるような現実にすらぶつからない可能性が高い。

そここそが問題だ。

■産後は夫婦の変化の「質感」と「分量」が違いすぎる!


現に今、あちこちで当たり前のように発生している産後の夫婦の溝って、妻の方は頭を殴られるような環境変化に身を置いて変わり続けるしかないのに、真横にいる夫の方はそこまでの激しい変化を経験していないっていうことに尽きると思うのだ。

「俺だって変わった」って多分みんな言うだろうしまったく変わらない人なんてもちろんいない。でも女性が経験する変化の度合いは、男性が思っているよりも冗談みたいに大きい。

母親になった女性は、身体は痛み万年睡眠不足で、社会的立ち位置も生活パターンも激変だらけで制約だらけ。自分のペースで日常生活すら送れない上、子どもの命を預かる高い緊張感にもさらされる。それはもう始終頭をぶん殴られつづけている感じ。

父親になった男性は、むしろ前向きな変化を心に秘め、エネルギーはより外に強く向かう。子どもの存在に背中を押され気を引き締め仕事に人生に責任感を強める。ポジティブな意識の高まりはあっても、それまでの生活と比べて制約を受ける度合いは女性に比べると圧倒的に少ない。

どちらも自分の文脈で親になっているんだけれど、この変化の質と分量が違い過ぎる。


妻が夫を見れば、のんきで気楽でやる気がなく見えるし、夫が妻を見れば、理不尽な不機嫌のかたまりに見える。どっちも「自分はこれ以上できないくらいがんばっている」と思っているのに。お互いがストレスの元になって狭い家の中でストレスは再生産され増幅する。あぁ、なんて非効率な!

■「ふたりの子ども」のことだから……


私はたまたま「産む性」で親になって変わらざるをえなかったこと自体はよかったな、と今は思っている。ごちゃごちゃの中で結果的に身につけるしかなかった柔軟性は今後の人生に多分プラスになるだろう。

でも、だからといって、産後の激変を親の一方だけがひとりで経験するっていうのはどうにも賛成できない。そんな大きな変化を・女性だからというだけで単独で引き受けて乗り越える必要はないだろう。

だって「ふたりの子ども」の子育てなんだから。その変化の大波に、ひとりで孤独に耐えるってのは割に合わない。ごく普通に考えて、そういうもんじゃないだろうか。ふたりとも「変わらざるをえない」ならがんばれる。せめてこちらの変化の質と重量を理解して心を寄せてくれていてくれるなら、がんばれる。

■「育児の大変さ」はわかりにくい


ただ一方で、男性が「そんなに子育てが大変だなんて思わなかった、仕事だって大変だし」って言ってしまうのも、残念ながらよくわかるのだ。

もしも私が「産む性」でなく、子どもを産むのに身体を使わないで済むとしたら、「私は仕事に集中したいしその方が効率いいから家のことはお願い。いいでしょ? 私が稼いでるんだからそれで。」とパートナーに言い放ってしまったんじゃないかな、と思う。これじゃぁ「当事者意識のないダメな夫」像そのものだ。

それくらい育児って経験していない人は「簡単」だと思っているし、人は意外と鈍感で、すぐ隣にいる人の痛みに気づきにくい。このまま夫婦の一方だけがきつい現実を背負って、一方がそのまま無傷でいたら、溝ができるのは当たり前だろう。

■「ひとりじゃ無理」を常識に。その時がきたら変われる柔軟性が重要


だから、ごくシンプルに、ひとつだけ社会の常識になって欲しいことがある。

それは、出産して子どもを育てるという「環境の変化」を女性が一人で吸収するのは無理だっていうことだ。

本当は、夫婦ふたり分の手にも余るほどの変化が起きる。いっけんそう見えなくても必ずオーバーフローするよっていうことだけ、当たり前になって欲しい。

例えば座談会メンバーのように、男女の役割をもともと極めて固定的に考えていることが問題なのかっていうと、実はそうでもなくて、それはそれでもう仕方ないって思うしかないような気がする。

「もともと」はこの際何でもいいから、いざオーバーフローしたときに、事態を正確に捉える目と、ぱっと役割イメージを撤廃して柔軟になる勇気があることが重要だ。

オーバーフローしているのに、自分の役割だと信じていることをかたくなに守って変えず、強い使命感と根性で責任を果たそうとし続けることの方が問題。

女性も「もともと」の考え方にかかわらず仕方なく変わるのだから、男性も一緒に頭を殴られるような状況に巻き込まれたら変わる。産後の混乱期って、「そっちの役目でしょ」なんて言っている場合じゃなくて、とりあえずふたりで慌てて目の前の穴をふさいだり飛んでくる球を打ち返したりするしかないはずなのだ。

もし、男性がリアルな作業負担をたくさん負えないとしても、「今、家庭内はオーバーフロー中でやばい」ということだけは理解して、せめて頭の中だけでも本気で同じ側に立つことができれば、「ひゃぁーこれまずいね、これは大混乱だね、きついね」と本気で言い合える。それはたぶん、共に子育てしている絆みたいなものになり、一緒に乗り越える力になるだろう。

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自分の子が20代前半の頃に果たして男女の役割や結婚観についてどんな発言をするのか……。そんな視点で見ても、この座談会、いろいろなことを考えさせられるんじゃないだろうか。

男っぽさとか女っぽさとか父らしさとか母らしさとか男の役割とか女の役割とか……そんなもの、本当はとっても不確かで流動的で、時と場合によってどんどん変わっていくもの。現実に合わなければ組み替えてふたりで勝手に決めればいい。これからの子どもたちはもちろん、大人になってしまった私たちも。

狩野さやか狩野さやか
Studio947でデザイナーとしてウェブやアプリの制作に携わる。自身の子育てがきっかけで、子育てやそれに伴う親の問題について興味を持ち、現在「patomato」を主宰しワークショップを行うほか、「ict-toolbox」ではICT教育系の情報発信も。2006年生まれの息子と夫の3人で東京に暮らす。リトミック研究センター認定指導者資格有り。