毎年この季節になると、ため息をつきたくなる。
女性誌やママ向けサイトに登場する、「入学式・卒業式におすすめのママファッション」という類の記事の存在に。そこにはだいたい、マナー講師によるこんなコメントが載っている。

「スーツ、ジャケット着用が基本です。でも、仕事用のスーツをそのまま着用するのではなく、女性らしい柔らかさも採り入れましょう。主役は子どもです。目立ちすぎる色や露出を避け、母親らしく控えめな装いに。色はネイビーや明るいベージュ、白などが望ましいですね。お祝いの席ですから、パールのアクセサリーやコサージュをつけて華やかさもプラスしましょう。ただしあまりギラギラと光るもの、大ぶりのものはおすすめしません」


いやー、なぜ控えめなのが「母親らしい」のか。なぜ柔らかさが「女性らしい」のか。
しかも、推奨される装いの写真の見出しには「よい母っぽさ」「母らしく」なんて書いてある。「よい母」って何なわけ? キリっと辛口で自己主張をちゃんとするハンサムな女性や、その場の雰囲気をガラッと華やかに変えるオーラのある女性は母親らしくないってか? 子どもを産んだらみんな静かに微笑んで一歩下がって過ごさねばならんのか。

そもそも、水戸黄門の印籠のようにドヤ顔で登場する「主役はあなたではない」という言葉にも違和感がある。だって、入学式・卒業式において、母親は子どもとはそもそも体格が違うから、子どもと張り合いようがない。

「子どもよりも目立つな」というのなら、アクセサリーを身につけていない子どもに気を遣ってアクセサリーは外すべきなんじゃないのか。そこ、矛盾してませんか。そりゃ、サンバの衣装や、漫才師が着てそうな総スパンコールのジャケットでも着ていれば子どもよりも目立つだろうが、さすがにそんなことをする人はいないよなあ……。

このフレーズ、結婚式でも「主役は花嫁です」という形でよく使われるけれど、ゲストが花嫁と同じドレスやヘアアクセサリーを調達することなんてできないから、やっぱりナンセンスだと思う。

だいたい、いざ晴れ舞台の主役となる「子ども」や「花嫁」は、自分の思い通りの装いができるのか? 子どもは親が服を買ってくるし、制服の場合もある。花嫁だって、式場と提携した店から選ばないと何かと面倒だし、花嫁が衣装にこだわりすぎると「イタイ」と冷笑される。結局主役と祭り上げられているけど傀儡みたいなもんじゃないか。いったいいつになったら、誰にも指図されない「本物の主役」になれるんですかね。

……とまあ、この手の記事にはとにかく何かとツッコミどころの多いフレーズがちりばめられていて、いちいちカチンとくるわけだ。

それで、この季節になるとデパートやショッピングセンターにも、前出の記事に沿うような形で、入学・卒業式用の母親向けセレモニースーツ、いわゆる「ママスーツ」の売り場が登場する。それを見ると、「ああ、近い将来これを着るのか……。これを……」と頭を抱えたくなるのだ。

ママスーツとして売られている服は大きく分けて2タイプある。
ひとつは、ノーカラーで襟元のラインが丸く詰まっているツイードのスーツ。国内・海外のロイヤルファミリーや女性政治家、ファーストレディーなどが昼間の公務の際に身につけるようなものである。

確かに、彼女らのスーツ姿は凛として美しい。でもそれは、スーツを体型に合わせてあつらえ、髪の毛もかっちりとセットし、エレガントな立ち居ぶるまいをしているからだ。こんなスーツを私が着たらどうなるか。スーツをオーダーメイドするお金も、髪をセットする時間やお金もない。子どもに追われてエレガントな立ち居ぶるまいも難しい。だから、「しょっちゅうトンチンカンなクレームをつける、ヒステリックな、ざぁますババア」になるに決まってる。

もうひとつのタイプは若い母親向けのデザインである。パステルカラーかモノトーンのジャケットに、丸いネックラインの甘めテイストのブラウス、そして膝が隠れる程度の丈のフレアスカート。

これも、民放の女子アナのような、小鹿のような風貌の女性が着れば、とてもかわいらしく決まるだろう。しかし、うすぼんやりした顔立ちで太っている私が着れば、「意志薄弱な豚おばさん」になりそうだ。

とにかく、どちらのタイプも絶対に似合わなさそうなことだけは確かである。

しかし、似合わないのは私だけではない。卒業・入学シーズンにこの手のママスーツを身に着けている女性たちの多くはオバサン臭く見える。それがたとえ20代の女性であってもだ。

しかし不思議である。私の住んでいる街がそうだからなのかもしれないのだが(※注:別に高級住宅街に住んでいるわけではない)、未就園児・未就学児を抱える母親たちの普段の姿を見る限り、たとえカジュアルな格好でもオバサン然としている人は少ない。皆それぞれに溌溂とした魅力があるのだ。

それなのに、なぜあんな似合わない服を身につけて、オバサン臭くならなければいけないのか。何かの罰ゲームですか!?

■「オバサン化」の秘密はハイリスクハイリターンを避ける気持ち


なぜ、ママスーツが似合わない人が多いのか。
それは、ママスーツが極めて限定的な女性像しか打ち出していないからだ。端的に言うと、古風な良妻賢母的な女性像である。しかし、それを着る生身の母親たちはどうなのか? 母親にだってさまざまな個性があり、それが魅力になっている。なのに、無理して良妻賢母的な格好をするから似合わないのである。

じゃあ、自分に似合う服を選べばいい。
確かに入学式・卒業式の服装には決まりがある。
しかし、押さえるべきポイントは下記の通りだ。

・昼間のセレモニーである→準礼装または略礼装。露出や光りものは控える
・お祝いの席である→華やかさもプラスする
・学校行事である→上品で賢そうな装いにする

前出のマナー記事の全文をうのみにしなくても、最低限これだけ押さえておけばよいのでは?

よくマナー記事で控えるように言われる原色や柄物だが、程度の問題で、品よく見える面積や柄の大きさなら、問題ないと思う。

甘めのモチーフが嫌なら、最近ではシンプルなセットアップもありだろう。ツイードのジャケットよりもよっぽど日常的に着回しできそうだ(最近ではセットアップも入学・卒業式ファッションとして女性誌でおすすめされるようになってきていて、それはよい傾向だと思っている)。

そして、服自体にどこか華やかな部分があれば、無理してオバサンくさいコサージュなんてつけなくてもいいのではないか。

そうやって、自分の好きな路線のブランドやセレクトショップに足を運び、最低限のポイントを押さえつつ、自分に似合うアイテムを頭で考えて探していけば、オバサン臭さはいくぶん回避できるに違いない。

しかし、この方法には欠点がある。
まず、おしゃれが好きな人でないと、非常に面倒くさい。
そして、失敗する可能性も高い。

そう、おしゃれには失敗がつきものなのである。それはおしゃれな人だってそうなのだ。
たとえば、世界の王室のファッションリーダーとして知られる、イギリスのキャサリン妃を見ればわかる。彼女のファッションセンスはすばらしく、女性誌ではたびたびその装いが取り上げられる。私自身もとても素敵だとあこがれる。

しかしだ。
彼女は結構やらかしているのである。スカートが風のいたずらでめくれたり、レースのエレガントなスカートから脚が透けてみえたり。

これについてはきっとマスコミだけでなく、周囲からも注意されているはずだ。それでも、決してめげずに、「いかに場をわきまえながら自分を魅力的に見せるか」に挑戦し続けているのが凄い。そして、この攻め続ける姿勢こそが、ファッションリーダーの資格なのである。

こんな頭脳と勇気を、誰もが持てるかというと、そうではないだろう。
だから、多くの人はママスーツ売り場に行き、「はっきりいって好みではないけど、こういうのを着とけばいいんでしょ」と半ばなげやりに思いながら、店員さんのすすめにしたがって着るものを選んでしまう。それが、手っ取り早くて失敗が目立たない方法なのだから。

■日本にはびこるもっさり信仰


それにしても、特にフォーマルシーンにおいて、日本の女性たちが「無難、無難」と呪文のように唱えながら似合わない服を選び、制服化してしまうのは根深い病のように思えて仕方がない。

私はここに、「もっさり信仰」があるように思えるのだ。
つまりこうである。とくに日本では「自分を魅力的に見せることを知っている人」よりも、「もっさりしているけれど、身だしなみだけはきちんとしている人」のほうが愛される、信用されるということだ。

まず、その場に非常にふさわしく、かつ自らにも似合う服を探し出せるということは、自分の魅力と、着ていく場で求められることを知り尽くしているということである。これは頭がよくないとできないし、教養も必要だ。

つまり、人をハッとさせるような素敵な装いというのは「私、切れ者ですよ」と周囲にアピールするのと同じことである。これに警戒心を抱く人は多いのではないか。

その一方で、いまいち似合わなくてもっさりしているけれど、身だしなみだけはきちんとしていると、「私、自分が賢いとは思っていませんが、あなたに礼儀を尽くしたいんです」というメッセージを発することになる。それが人に安心感を与えるのである。

たまに悪質な結婚詐欺師が、一見サエないオッサンオバサン風味の見た目でびっくりすることがあるが、それはこのもっさり信仰を逆手にとっているからなのだ。

しかし、もっさり信仰がはびこるのは仕方がないのだ。なんせ、私たちは多感な10代にもっさり信仰へと強制的に入信させられるからだ。皆と同じ制服を着て、顔立ちも性格も体型も違うのにそれに合わせた着こなしを認めてもらえず、たとえ自分が魅力的に見えなくても校則で決められたとおりの着こなしにしなければいけない。自分の頭で考えることを否定され続ければ、そりゃもっさり信仰にもなりますわな。

もっさり信仰に毒されている人は、おしゃれな人に対してあこがれを持ちつつも、どこかで失敗することを望んでいる。そしておしゃれな人は失敗すると目立つので、ここぞとばかり陰口をたたいて溜飲を下げるのだ。それが怖くて、皆「浮かないようにしなきゃ」と息をひそめているのである。

でもなあ……。無難な服を着て、「ああ、なんとかこの場を無難にやり過ごせた」と胸をなでおろしている人たちの集団は、その集団に属していない人から見ると猛烈な息苦しさを感じさせるんですよね。そこにすさまじい同調圧力を感じるから。

まあ、そんなことをいうと、当の本人は「私はこのコミュニティでうまくやりたいんです! コミュニティの外からどう見られるかまでいちいち気を遣ってられないんです!」と反論したくもなるだろう。でも、そもそも、そういう思考ってもったいなくないか。

子どもの入学式や卒業式など、もう人生で何度も経験できるものではない晴れやかな場なのだ。なのに、「無難」という言葉に縛られて、1~2回しか着ない、さして似合っていない服に高いお金を出し、ミスをしないかびくびくしながら過ごすなんて。

自らの装いが場の雰囲気を演出するという意識を持つことは大前提ではあるが、せっかくの非日常なのだ。思いきり楽しんだほうがいいに決まってる。みんなもう少し、多少失敗してもアハハと笑い飛ばせるようなおおらかな気持ちで臨むことはできないものか。面接試験じゃないんだから、ちょっと失敗して第一印象がイマイチでも、あとでいくらでもリカバリがきくだろう。

まあそういうわけで、私はいつも、春が来るたびに、この息苦しさ、なんとかならないのかと思い、深いため息をつくのである。

今井 明子
編集者&ライター、気象予報士。京都大学農学部卒。得意分野は、気象(地球科学)、生物、医療、教育、母親を取り巻く社会問題。気象予報士の資格を生かし、母親向けお天気教室の講師や地域向け防災講師も務める。