出産して3ヵ月がたった。赤ちゃんの成長を見るにつけ、母乳というのは不思議なものだと実感する。だって、出産直後はあれだけ細くて折れそうだった手足が、たった3ヵ月で片手でおさまりきれないくらいムッチリと肉感的になるのだ。しかも、体が大きくなるだけでなく、ソフトウェアまでアップデートされている。

なのに、産まれたての時なんてせいぜい1日にコップ1杯分しか飲んでないのだ。日ごとに飲む量は増えるとはいえ、大人の食事量から考えると微々たるもの。赤ちゃん自身のポテンシャルが高いとはいえ、こんなに成長させるドリンク剤はほかにあるだろうか。


しかも、今の時代は母乳が出なくても、市販の粉ミルクで同様の成長が見込めるわけだ。よく考えたらこれはすごいことである。人工的にそんなハイスペックな栄養ドリンクを開発しているのだから。

いったい、粉ミルクの開発というのはどうやっているのか。どうやら粉ミルク開発には母乳の研究が欠かせないらしい。これは、人工知能の研究が、「そもそも人間の知能とは何ぞや?」ということを追求するのと同じようなものなのかもしれない。

MAMApicksでは、以前から粉ミルクメーカーの雪印ビーンスターク株式会社に取材を行い、同社の行う母乳研究についてレポートしてきた。

▼関連アーカイブ
【大人の社会科見学】雪印ビーンスタークの商品開発部で「母乳研究」の神髄を見た!
http://mamapicks.jp/archives/52203402.html


折しも8月1日~8月7日は世界母乳週間だという。
つい最近でも、母乳に関する新たな発見があったそうだ。その話を聞きつけ、同社の商品開発部 マーケティンググループ課長の山本和彦さんと、商品開発部で農学博士の上野宏さんにお話を伺ってきた。

■免疫にかかわる「オステオポンチン」という新物質


雪印ビーンスタークでは、戦後間もない1951年から母乳研究をスタートさせ、1960年から全国規模の母乳研究に着手している。そして、母乳に含まれている成分を調べて、より粉ミルクを母乳に近づけるべく開発を進めてきた。

2015年からは、第三回目となる母乳調査を開始した。この調査の最大の特徴は、1組の親子を5年にわたって調査するということだ。また、調査にあたっては実際に母乳も提供してもらう。これだけでも相当手間のかかる調査だというのに、対象人数は、母子1200組を目標としているのだから驚きである。

この調査は2023年ごろまで行う予定で、そこからわかった研究結果は随時報告されている。2018年にはこの母乳調査のデータを用いて、日本、中国、韓国、デンマークとの国際共同研究にも参画した。今回はその国際共同研究の結果についてお話を伺うことができた。

今回紹介する国際共同研究では、のべ829人の母乳に含まれる「オステオポンチン」というタンパク質についてあらたな発見があったという。

この、オステオポンチンは、1986年に骨を新しく作りだす「骨芽細胞」から発見され、1989年に初めて母乳中にも含まれていることがわかったという物質だ。母乳の中に含まれる成分は、古いものだと100年以上も前に発見されているのだが、そのなかで、オステオポンチンは約30年前と比較的新しく発見された物質といえる。それだけに、どのような働きをするのか、どういった形で母体から母乳に含まれるようになるのかは、いまだにはっきりとはわかっていない。

ただ、オステオポンチンは、骨の形成や代謝に働きかけるだけでなく、免疫にもかかわることがすでにわかっている。その証拠に、オステオポンチンが配合されていない通常の粉ミルク、オステオポンチンが配合された粉ミルク、母乳の3種類を飲ませた赤ちゃんのグループをそれぞれ比べてみたところ、オステオポンチンを配合したミルクを飲んだ赤ちゃんの発熱日数は、母乳を飲んだ場合に近づいて、少なくなるのだ。具体的には、オステオポンチンは、赤ちゃんの免疫機能を発達させたり、免疫関連の遺伝子を発現させたりするという。


▼オステオポンチン添加による乳児の発熱日数への影響
(グラフ提供:雪印ビーンスターク株式会社)


そういえば、「母乳にはお母さんからもらった抗体があるから、母乳で育った赤ちゃんはしばらくの間風邪をひきにくい」と聞いたことのある人は多いのではないだろうか。しかし、母体から母乳を通じてもらうのは、抗体だけではないということだ。ちなみに、オステオポンチンは圧倒的にヒトの母乳に多く含まれており、牛乳にもある程度含まれていることもわかっている。


2018年に行われた調査では、4か国の629名から提供された母乳のべ829検体を対象にし、母乳の中にどの程度オステオポンチンが含まれているのかを調べた。すると、おもに2つのことが明らかになった。

まずひとつめにわかったことは、母乳に含まれるオステオポンチンの濃度に地域差があるということだ。どうやら、日本人の母乳には比較的オステオポンチンの濃度は低い傾向にあるという。上野さんによると、「なぜ、地域差があるのかは今後の研究課題なのですが、オステオポンチンは感染防御にかかわるタンパク質なので、現状では衛生的な環境の国では濃度が低く、そうでない国は高い傾向にあるのではないかと推測しています」とのこと。


▼オステオポンチン濃度の地域差
(グラフ提供:雪印ビーンスターク株式会社)


そしてもうひとつわかったことは、分娩後から日数がたつにつれて、オステオポンチンの濃度も下がっていくということだ。これは同じ母親から時期を変えて何度か提供してもらった母乳を追跡していくことで明らかになった。しかし、これはなんとなく予想通りなのではないだろうか。確かに、出産直後の母乳は「初乳」と呼ばれる黄色い色をしたもので、初乳は赤ちゃんに免疫上のメリットがあるとよくいわれている。それを裏付けるような結果である。

■母乳に含まれているのはタンパク質や脂質だけではない


今回お話を伺ってみてびっくりしたのは、母乳というのは想像以上に魑魅魍魎に溢れているということだった。上野さんはこう語る。
「母乳の中には、食品に含まれるようなタンパク質や脂質だけでなく、母親の体にある細胞や微生物なども含まれているんです。母親の細胞が赤ちゃんの細胞が成熟するまでの間は代わりに働いたり、母親由来の微生物が赤ちゃんにも受け継がれるんですよ」

そう考えると、こんな複雑な液体を人工的に再現するのは本当にハードルが高いことがわかる。
「さすがに、母親由来の細胞や微生物まで粉ミルクに加えることは難しいのですが、母乳になるべく近いものを作っていきたいという気持ちは常にあります」(上野さん)

気になるのは、オステオポンチンが配合されたミルクが日本で発売されるのはいつごろになるのかということだ。聞いてみたところ、「まだまだ先になりそうですね」とのこと。実はオステオポンチン配合の粉ミルクは世界的にもまだ数が少なく、わずかに韓国や中国、ベトナムで発売されているだけなのだという。こういった国では、牛乳に含まれているオステオポンチンを抽出して粉ミルクに加えているらしい。

母乳かミルクか。乳児持ちの母親の悩みの多くを占めるのが、この問題である。
母乳にはさまざまなメリットがあるのは、ウンザリするほどよ~くわかっている。でも、うまく出ないことだってあるし、薬を飲んでいると母乳をあげられないこともある。そう考えると、粉ミルクが母乳に近づけば近づくほど、母親の罪悪感は軽くなる。

赤ちゃん連れで道を歩くと、老婦人から「あらかわいい。母乳?」という謎の愚問を投げかけられるものだ。粉ミルクのさらなる進化で、こんな愚問を投げかけられて後ろめたい思いをする母親がひとりでも減ればいいなと心から思う。

今井 明子
編集者&ライター、気象予報士。京都大学農学部卒。得意分野は、気象(地球科学)、生物、医療、教育、母親を取り巻く社会問題。気象予報士の資格を生かし、母親向けお天気教室の講師や地域向け防災講師も務める。