5月のこと、娘が熱性けいれんをした関係で入院することになった。
管理入院だったので、母親的に狼狽することもなく、過ぎてみれば4日の入院生活はあっという間で、今は親子ともすっかり元気である。

さて、こういう非常時は、ふだんぼんやりしている子育てのスタイルを確認するきっかけにあふれている。


時間はさかのぼって、私と娘が総合病院の待合い病室で「入院or帰宅」という医師の判断を待っていた時の話をしたい。私たちがベッドで本を読んでいると、カーテンを隔てた隣のベッドから話し声が聞こえてきた。どうやら救急搬送されてきた1歳前くらいの子が念のため入院となり、母親と祖母がその付き添いのスタイルで悩んでいるのだった。

看護師の説明によると、入院のタイプは2種類。ひとつは子どものとなりに親のベッドが用意され、親が24時間付きそうスタイル。もうひとつは子どものみで宿泊し、親は面会時間に滞在するスタイルだ。前者を選んでしまうと、母親は退院まで子どもと一緒に過ごすことになり、途中から方針は変えられない。

母親には仕事もあるようだ。祖母(母親の実母のよう)が仕事中は祖母、仕事が終わったら母親に交代しようと提案しているものの、実践できるか考えあぐねている様子だった。

私は盗み聞きながら、母親に共感していた。我が子のことは心配でも、考えナシで身を投げうったら共倒れのおそれもある。退院後のことも考えて、ここはプロと一緒に乗り越えましょう! なお私だったら、「親は面会時間に来て家に帰るコース」の一択である(家にいる息子の世話もあるから)。

そんな私たち(⇒勝手に連帯)に祖母がこう言った。
「24時間一緒にいてあげなさいよ。あなたの子なんだから」。

パワーワードが出た!と思った。
「あなたの子なんだから」……辛い時間を過ごす子どものために、一緒にいてあげなさい。(母)親の責任や、(母)親としての愛情表現として、24時間一緒にいるのが自然じゃないのか……。祖母の想いは、きっとこのあたりだろう。

分かる。しかし、納得手前で踏みとどまった。
命に別状がない場合、私の子であっても、24時間付き添うかは別の話、でいいんじゃないかと。

看護師はどちらか一方の入院スタイルを勧めることはしない。「お仕事をされているお母さんは、昼休みや夜だけ来る方もいますよ」と対応しており、なんとなく非難がましい祖母を制しているようにも聞こえた。

小児科病棟の面会時間は、平日12時~21時、休日は10時~21時。
夜を乗り越えればなんとかなりそうである。まあ、魔の夜なのだけど。

■メンタルが喰われる「ママ」を求める声


夜11時。入院当日、娘と小児科病棟に入ると薄暗い部屋から誰かの「ママ~」と泣く声が聞こえた。ベッドの柵は脱出を防ぐために1メートルはあり、見た目は檻そのものである。どこかからピロピロと計器の音が鳴っていた。

娘は親が宿泊できないタイプの部屋に入院することになり、私は自動的に「親は帰るコース」となった。私は小児科病棟のリアルを目の当りにし、娘の試練を思った。2時間前に聞いた「あなたの子なんだから」は半分は思考停止のおしつけだが、半分は優しさでできているのかな、などと思った。

その日は娘と手をつないで寝かしつけ、深夜1時くらいに家に着いた。次の日は息子の運動会のため弁当を作り、観戦し、病院へ行った。

それから退院までの3日間、面会時間みっちり(最長11時間)滞在し、帰宅してから少し仕事をする生活が続いた。娘が回復してくると「このまま1週間入院するか、自宅で1週間静養するか」を選ばせてもらうことになり、自宅静養を選んで退院となった。

結果的にたった4日、されど4日。ものすごく疲れた。
慣れない生活に私の体調は崩れ、息子も発熱。ホラ来た、余波である。この余波を想定して、やはり私の体力は残して正解であった(足りないけど!)。

■一択の光はママなのか?


小児病棟では、昼でも常に数人の子どもたちが泣いていた。

「ママ~?ママ~来た~? いるー?(3時間ぶっとおしで叫ぶ子)」
「ママー!ママー? お願いだからここから出して~(食事時間以外、号泣の子)」
「イヤーーーーーー!!! パパ、あっちいってーーー!!(号泣&パパ困惑)」
と全力で母親を求める子たちが目に留まった。

それを聞くと「あなたの子なんだから」というセリフがよぎり、符号が一致する感じを受けた。きっと、子どもたちにとってママは光、安らぎである。

しかし病室を見渡すと、パパにお世話をされ、安定している子も何人かいた。時間を決めて交代する夫婦もいる。

だから、必ずしもママでなくてよいのである。一緒に過ごした時間が長ければ、子どもは安定するのだろう。我が家もそうだが、主にママが子育てをしているからママを呼ぶのだ(ちなみにこれは我が家の失策)。

退院してから娘はふいに「(入院中)ママに会いたくて、ずっと泣いていたんだよ」と言う。褒めてもらいたい時に、ワザと言うときもある。すべてを踏まえて私は「ごめんね」の代わりに「さみしかったんだね。よくがんばって、偉かったね。」と言うようにしている。


今回の非日常的な経験で分かったのは、誰に何を言われようとも、その家の運営を担っているものが方針を決めて良い、ということである。身を削ることは、時に愛かもしれないが、すべてではない。子どもの光がママなら、ママが元気でいることが最優先だ。夫を頼れないなら、なおさらである。

こういった確認を繰り返して、世にいう「自分らしい子育て」ができ上がっていくのだろう。常に未完のまま。

斎藤貴美子
コピーライター。得意分野は美容・ファッション。日本酒にハマり、Instagramの#SAKEISAWESOMEkimikoで日本酒の新しい切り口とコピーを思案中(日本語&つたない英語)。これからの家族旅行は酒蔵見学。二児の母。