子どもの頃、友だちとするごっこ遊びが何よりも好きだった。
滑り台や砂場を海の中やお城に見立てて、人魚になったりお姫様になったり。
想像力を思いっきり膨らませて、背中の羽根でどこにでも飛んでいくことができた。

しかし、大人になって気づいてしまった。
子どもが木の枝を拾って、「変身するよ。せ~の、それ~!」と振り回しても、その木の枝はただの木の枝であって、決して魔法のステッキには見えない。
もう、子どもと想像の世界を共有することはできないのだ。
子どもの頃に生えていた背中の羽根は、いつの間にか消えてしまったのだ。

■子どもと遊ぶのは眠い


まあ、そんなわけで、親となった私の目下の悩みは「子どもと遊ぶのがつらい」ということだ。

とくに幼い子どもとの遊びは、同じことを繰り返しなので眠くてたまらない。
しかし、寝てはいけない。少しでも目を離せば、子どもは命の危険にさらされてしまう。
そして、親の眠気のピークと、子どもの昼寝のタイミングはたいてい重ならないので、猛烈な眠気を我慢しなければならず、拷問のようでもある。


もう少し子どもが大きくなると「絵本を読んで」とせがまれる。
絵本の読み聞かせは各所から全力でおすすめされるし、読んであげようかと思う。しかし、私にとってはこれもつらい。赤ちゃん用の絵本は単調だし、何度も読まされるのでやはり眠くなるのだ。少し大きい幼児用の絵本になると、物語性があるので黙読する分には楽しいのだが、長いので音読すると喉がカラカラになってしまう。

それでも、子どもが5歳になると、絵本は自分で読むし、塗り絵をしたり一緒にトランプをしたりと、それなりに大人でも付き合えそうなものが出てくるから助かる。しかし、ごっこ遊びがつらい。

子どもには子どもの想像の世界というのがあるのだが、親にはそれが共有できないので、こちらが何かするとすぐに「ちがう!」と怒られる。しかし何が間違いなのかわからないし、どうすればいいのか聞くと余計に興をそがれてしまうため、子どもの怒りはヒートアップする。

子どもの頃はあんなに好きだったごっこ遊びなのに、大人になるとこんなにつらくなるなんて……。

しかし、子どもに「遊びたくない」は通用しないのだ。
子どもは「私は子どもと遊ぶという行為が嫌いなので、あなたとは遊びたくありません。でも、あなたのことは好きなので、誤解なきように」という概念を理解できないからだ。

ま、大人でもそこ、切り分けられない人が多いから、仕方ないよね。
会社で「あなたは尊敬する上司です。でも、お酒の席は嫌いです。だからあなたの飲みのお誘いには応じられません」とか言ったら、ほとんどの上司は機嫌を損ねるもんね。

■大人が子どもの遊び相手になっている現実


子どもと遊ぶことが楽しめない自分は、親失格なのだろうか。
子どもと遊びながら生あくびをかみしめるたび、いつもそんな罪悪感にさいなまれる。

しかし、よくよく考えてみたら、自分自身が親と遊んでもらった記憶があまりないのだ。

それでも、自分自身の幼児時代を振り返っても、ろくに遊べなくて不満だったという記憶はない。
それは、友だちと思いっきり遊んでいたからである。
当時は団地の社宅暮らしで、幼稚園から帰ったら社宅の敷地内にある庭になんとなく子ども同士で集まって遊んだり、勝手に友だちの家に行ったりして遊んだりしていた。
今よりもずっと、友だち同士で遊ぶハードルが低かったのだ。

だから、親に遊んでもらっていなくても、別にさみしいとかつまらないということはとくに感じていなかった。

でも、今はどうだろう。
保育園に行っていないときは、子どもは友だちよりも親と過ごす時間のほうが圧倒的に多い。
そりゃ、休日に公園や児童館に行けば、たまたま娘の保育園の友だちと鉢合わせすることはあるけれど、私の子ども時代よりも遭遇確率は低い。土日は習い事や家族のお出かけで、それぞれ予定があるのだ。

まあつまり、子どもにとっても同世代の友だち同士で遊ぶことがなかなかできないから、大人が相手をせざるを得ない状況になっているというわけだ。

■童心を忘れないことは「才能」である


しかし、言い訳がましいかもしれないが、子どもを見ていると、親に遊び相手になってもらうよりも、やっぱり子ども同士で遊んだほうが楽しいんだろうなと思ってしまう。

たとえば、我が家では上の子が下の子をたまにあやすのだが、「いないいないばあ」などは、親である私よりも上の子がやったほうが下の子の反応がよく、ケタケタわらう。でも、下の子が甘えたいときにすがりつく先は、上の子ではなくて私である。つまり、子どもが親に求めるものときょうだいや友だちに求めるものは本来違うのだろう。

それを見るたびに、やはり「大人が子どもの遊び相手になる」というのは不自然なんだろうなと思うのだ。

とはいえ、もちろん、「子どもと遊ぶのがつらいなんて、信じられない! すっごく楽しいのに」という人もいると思う。しかし、そう思えることは「強み」なのだ。強みだからこそ、仕事として成立するのである。

たとえば、すぐれた絵本作家や童話作家の作品には、多くの大人がつい入れたくなる「説教臭いオチ」がないことが多い。しかし、そんな話なのに、子どもはものすごく楽しんでいる。こういった人たちは、大人からするとバカバカしく思えるような、子どもならではの世界観をみずみずしく描いて、子どもの心をぎゅっとつかむことができるのだ。これは、大人になっても子どもの心を忘れない、稀有な人でないとできないことだと思う。

保育園や幼稚園の先生もそうではないだろうか。もちろん、このような仕事は「子どもとただ遊ぶ簡単なお仕事」ではない。子どもとの接し方ひとつひとつ、提供する遊びのひとつひとつが専門知識に裏打ちされており、仕事ぶりを見るたびに、つくづくプロフェッショナルだなあと舌を巻いてしまう。それでも、ベースに「子どもと遊ぶのが楽しい」という気持ちがないと、とても務まらないのではないだろうか。

だから、大人になっても童心を忘れないことは、稀有であるがゆえに専門職として通用する強みとなりうるのだ。

というわけで、「子どもと遊ぶのがつらい」と感じることに、あまり罪悪感を覚えなくてもいいんじゃないかと思うことにした。

しかし、現実的には、余白の時間ができると子どもと遊ばなければいけない。
そこで、私は得意な遊びと苦手な遊びに分け、苦手な遊びは保育園(もしくは同世代の友だち)に担当してもらい、得意な遊びを自分が担当すると割り切ることに決めた。

ちなみに、私がさほど抵抗ないと思う遊びは、
・トランプやすごろくなど、ルールのあるゲームを一緒にする
・子どもを博物館や映画、遊園地などに連れて行って親も一緒に楽しむ
・幼児雑誌の付録の組み立て
・プールや水遊び
である。

いっぽう、「外注」したい苦手な遊びは、
・ごっこ遊び
・子どもが考え出した新しい遊び
・絵本の読み聞かせ
だ。

そういえば、夏休みはどこもかしこもイベントは大盛況だった。きっと私以外にも「子どもと遊ぶのがつらい」症候群の親御さんがたくさんいるのだろう。猛暑と混雑の中を出かけるのは、それはそれで大変ではあるのだが、冷房の効いた部屋から一歩も出ずに子どもと向き合って遊ぶ精神的なしんどさよりはいいもんな……と思いながら、いつも週末のおでかけネタをリサーチしているのだ。

今井 明子
編集者&ライター、気象予報士。京都大学農学部卒。得意分野は、気象(地球科学)、生物、医療、教育、母親を取り巻く社会問題。気象予報士の資格を生かし、母親向けお天気教室の講師や地域向け防災講師も務める。