4月の小学校入学から半年が経った。

入学前からやんわり聞かされてはいたものの、配布されるプリントが多い、準備する持ち物が多い、PTAの活動や保護者会などで親の稼働が増える、夏休みなど長期休みは学童用のお弁当を毎朝用意しなければならない……など、小学校には数多の試練が待ち受けており、「小1の壁」というやつをことごとく体感した一学期。

一方、当事者である娘といえば、学校と学童という新しいコミュニティがふたつもでき、保育園時代のように昼寝もなくなり、体力的にはかなり消耗した様子ではあったものの、ものすごい順応性を発揮して、学校でも学童でもよろしくやっている。

ノートラブルとはいかないまでも、生活面でも成長面でも彼女にとってはよい変化が多く、子育てのステージが一段上がったかも!なんて感じていたこのタイミングで出会ったエッセイが、今の気持ちにとてもフィットする良著だったのでご紹介したい。

あまりの面白さに怒涛の勢いで読了し、購入してから現時点でもう3~4回通しで読んでしまった、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ/著 新潮社)は、ジャンルとしては「子育てエッセイ」なのだけれど、今まで数々読んできた育児本とは一線を画す、異質とも言える存在だ。


タイトルの「ぼく」は、日本人の母(ブレイディみかこさんご本人)とアイルランド人の父を持つ、イギリス・ブライトンの公立中学校に通う男の子。カトリック系の名門小学校で生徒会長まで務めた優等生だったが、同じくカトリック系の中学ではなく、いじめもレイシズムもヘイトスピーチも喧嘩も日常茶飯事の「元・底辺中学校」に進学する。

それまで、ミドルクラスの生徒たちに囲まれていた「ぼく」が、初めて目にするリアルで苛烈な経済格差や人種差別、緊縮財政やブレグジットやワールドカップといった時事問題、思春期ならではのアイデンティティの揺れや、セクシュアリティやジェンダーに対する気づき、友人と音楽活動に傾倒する様などが、ビビッドに、そして時折シリアスに綴られている。

ブレイディみかこさんは、20年以上の在英歴を誇る著述家で、キャリアのスタートは音楽ライターだという。これまでもイギリスの格差を伝えるルポルタージュなどを数多く発表しているが、「ぼく」の誕生をきっかけに子育ての面白さに目覚め、保育士の資格まで取り、「ぼく」も通うことになる「底辺託児所」での勤務経験を持つ。

その「底辺託児所」が緊縮財政の煽りを受け閉鎖になったことから、再び執筆業がメインとなった結果、生み出されたのが本著、という経緯にも、人生の妙をひしひしと感じさせられる。


元々、世界各国での子育てや教育事情に関心があったので、どのエピソードも興味深く目からウロコがポロポロと落ちるものばかり。
感情表現やコミュニケーションのトレーニングを目的とした「演劇(ドラマ)」というプログラムが、託児所や幼児保育から中等教育でも重視されていることには「めっちゃイギリスっぽい!」と感心したし、特設サイトの無料試し読みページ(https://www.shinchosha.co.jp/ywbg/chapter5.html)に掲載されている「シティズンシップ・エデュケーション」も非常に実践的で、日本の教育にも導入されてほしい、というか私が受けてみたいと思う内容だ。

ニュースではたびたび目にするものの、まだ日本では身近とは言い難いトピックの里親制度や移民の家族についても、日常の風景の中で語られていて、見聞がどんどん広がっていく。とはいっても、まったくの異世界の話ではなく、むしろ、日本で子育てをしていても起こり得ることや日々私たちが直面していることとリンクする出来事だらけなのだ。

その中でも、とりわけ印象に残ったのは、「ぼく」とみかこさんが多様性について議論する場面だ。
「ぼく」が通う元・底辺中学校は生徒のほとんどが労働者階級の英国白人で、フリー・ミール制度(生活保護や失業中など低所得層のために無料で給食を提供する制度)に頼らざるを得なかったり、ボロボロに擦り切れても新しい制服が買えないほど困窮している家庭も少なくない。

貧困を理由にいじめられた子どもが、いじめてきた側を人種差別する発言でやり返すという悪循環に疑問を抱く「ぼく」に、みかこさんが説く「多様性」論があまりに示唆に満ちていて、膝を打ったので、簡単にまとめてみると、以下のようになる。

・カトリック小学校には国籍や民族による多様性があったけれど、家庭環境や信条が似ている点では均質であった。元・底辺中学校には経済状況など、また別軸の多様性がある。
・多様性というのはいいもののように言われているけれど、物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えなくなるから、ないならないほうが楽なのだ。
・だけど楽ばっかりしていると、無知になるから、無知を減らす意味で多様性はいいものなのである。


日本は多様性に乏しい社会だと言われることも多々あるけれど、果たして本当にそうだろうか。
もちろん国籍や民族、宗教といった意味では多様ではないかもしれないけど、多様性とはインターナショナルとかグローバル、という言葉で語られるものだけではないはずで、身の回りに多様性は色々転がっているではないかと、子育てを通じて感じるのだ。

我が家はめちゃくちゃ庶民だけど、周囲にはかなりお金持ちのご家庭も多いし、仕事の時間に響くから学校行事はできるだけ手短に簡潔に済ませたいなあと思う一方で、「子どもたちのためだから」という大義名分のもと、拘束を余儀なくされる場面もある。

子どもの年齢が近くて、近所に住んでいるというだけでつながっているコミュニティでは、お金や時間の使い方もかなり様々なので、教育方針や子育てに対する価値観もバラバラだろう。そこが一堂に会すると、なかなか相容れない事態も増えるものだ。

今思い返すと、大人になって人間関係をある程度自分の手で選べるようになってからというものの、随分楽になっていたのだなと感じる。気の合う友人と付き合い、仕事仲間とは共通の話題も多く、お互いの考えていることを察するのも容易だから、発生するコミュニケーションはいつでも軽快だしスムーズだった。

多種多様なバックグラウンドの人と付き合っていたつもりだったけど、実際は同じような、似ている人たちの集まりだったのかもしれないなとも思う。

その分、子どもを介した人付き合いは、学校にしてもPTAにしても保護者同士にしても、前提条件みたいなものがないから、最初は手探りで恐る恐るのところもあるし、実際戸惑うことも多かったのだけれど、飛び込んでしまえば、めちゃくちゃ新鮮で面白い。

煩わしいことなんて何もないとはもちろん言えないし、どちらがいいという話でもないのだけれど、こういう世界があることを知れてよかったというのも事実だ。

これから当分義務教育に身を置くことになる娘にとっては、自分自身だけでは選べない人間関係は、面倒くさかったり、悩みの種になっていくのだろうけど、多様性を目の前にしてどう振舞うか、どう衝突してどう乗り切るかみたいなサバイバル術や、自分の目で見てで考えて判断する力を身につけてほしいし、その過程を見届けたいのだとも思う。

老後の資金に2000万円必要だとか、キャッシュレスが進行して現金がアテにならなさそうとか、人生100年時代とか、たしかなものが何もない上に、消費税は増税して少子化に拍車がかかり歯止めは効かなさそうだし、日本の未来に待ち構えているのはディストピアしかないのでは……と暗澹たる気持ちになることもあるが、本著で描かれるイギリスの今も相当にシビアだ。それでも読後感が素晴らしく爽やかで、みかこさんは「未来は彼らの手の中にある」と言い切ってくれている。

渡英したきっかけがパンク好きだったからというみかこさんだけあって、随所にちりばめられた音楽や映画のリファレンスも楽しく、「元・底辺中学校」の「元」の意味が明らかになるくだりもかなりムネアツ。

みかこさんは「ぼく」とも配偶者とも普段は当然英語で会話しているのだけれど、著書の中でのセリフが江戸っ子っぽいのもテンポがよくてサクサク読めてしまう。初出誌である新潮社の文芸雑誌「波」での連載が現在も継続中とのことで、早く続編が読みたい!とうずうずしながら、もう1回最初から読み返そうかな、と手に取っているところだ。

真貝 友香(しんがい ゆか)真貝 友香(しんがい ゆか)
ソフトウェア開発職、携帯向け音楽配信事業にて社内SEを経験した後、マーケティング業務に従事。高校生からOLまで女性をターゲットにしたリサーチをメインに調査・分析業務を行う。現在は夫・2012年12月生まれの娘と都内在住。