「DQN」と書いてドキュン。今となっては往年の人気ドキュメンタリー番組『目撃!ドキュン』に出てくるようなヤンキー的価値観や振る舞いを、彼らにあてこすってそう呼ぶ。ヤンキーカルチャーはここぞとばかりにネットで忌み嫌われるが、それはヤンキーこそネット住民がリアル中坊だった頃の天敵であったであろうことからもなんとなく理解できる。

で、昔年の恨みからDQNという言葉に低能という意味をこてこてに込めて使われたのだが、どんなにネットスラングとして槍玉に挙げられても侮蔑語と認定されても、この言葉、息が長い。まぁそういう真に「ビッとしている」ヤンキーな人々はデジタルデバイド(または住み分け)のお陰でネットの外に住んでいるため、オタクの呪詛はそれほどダイレクトに届かずに済んでいるのだが。

しかしDQNというタームはそこから独り歩きし、一時の熱は冷めたものの、広義の「バカ親の所業」を指すべく「DQN●●」がネット上で何度もゾンビのように生き返る。中でも息が長いのはやはり「DQNネーム」。ヤンキーがいかにも嬉しげにつけてしまいそうな「日蘭(でぃらん)」とか「光宙(ピカチュ?)」とか、当て字盛り盛りで常識的に読めない上に微かな失笑を伴う名前をDQNネームと呼んで俎上に挙げるのである。
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どんなに「キラキラネーム」とかいう別の呼称を使ってスイーツな和え衣で誤摩化そうとしても、本質は「この名前つけた親って非常識じゃね?」の集団匿名ジャッジ、欠席裁判だ。

ネット世間のジャッジはリアルに刺さる

しかしこのDQNネームという言葉に怯えつつその行く末に耳ダンボなのは、実はヤンキーではなく、普通の市井の人々、フツーに可愛らしいママや素敵な奥様や優しくって勤勉で多趣味なイクメンの皆さんだったりする。そして怖いことに、DQNネーム裁判に加わってジャッジをしているのも当の可愛いママや素敵な奥様や優しいイクメンだったりする。

日本には三権分立の他に、「世間」という本当の意味でひとの生殺与奪の権を握る機関があるのだが、中でもとくにネット世間のジャッジは、現代の子育て層にとって新聞よりも遥かにリアルに刺さるから、みんな関心が高いのだ。

さてこのDQNネーム、どこまでがDQNでどこからがそうでないのか、はて全く分からない。一時期は典型的なヤンキーフレイバーの当て字名、コテコテのショウユ顔で名乗るバタ臭い外国名、親の2次元ヲタ歴が垣間見えるアニメ名や漫画名が俎上に挙げられた。

「彩香」に対して「やぁねぇ、芸者じゃあるまいし」

しかし例えばかつてDQNネームとして嗤われたはずの「樹里亜(じゅりあ)」などは、歌手や大河女優の名前(の一部)としてもうすっかり浸透しているし、イマドキのアイドルや子役の名前を見たって結構なポテンシャルの持ち主がゴロゴロしている。

DQNネームってもうすっかり浸透していて、何がDQNなのか不明。それで思い出すのが、昔ウチの祖母の茶飲み友達がよそのお宅の孫の命名「彩香」に対して言った言葉だ。「やぁねぇ、芸者じゃあるまいし」。

そばで聴いていた私にはフツーに可愛らしい名前として響く女の子の名前が、その年配コミュニティーでは「芸者じゃあるまいし」「そうよねぇ」と頷き合われるようなものだったわけで、私は気の良いおばちゃん達が突然覗かせた黒い顔に恐怖を覚えた。

子どもの名前で何かしらの自己顕示欲を満たす

はたと考えれば、当て字名もバタ臭名も2次元名もアイドル名も、その現実との乖離具合はまさに「源氏名」。「綺羅里(きらり)」「亜夢呂(あむろ)」なんて出典が透けて見えそうな名前にせず、地味で無難な名前に落ち着いておけば誰にも後ろ指刺されずに済んだのに、つい親の趣味やコンプレックスや自己愛が名付けに投影されて、ほんのり透けて見えるから嗤われるのである。

しかし名付けというのは、どの親も配偶者やら親戚やら多方面へ配慮したり自分の歴史を遡ってみたり、苦悩の旅の果てにひねり出されるもの。いろいろなイタさが投影されて当たり前なのである。

その意味では、非常に伝統的な日本名をさらりと付けて超然としているケースだって、そこに何かが透けているはずなのだ。妊娠や育児が多かれ少なかれ「自分を飾るアクセサリー」の延長となってしまったこの時代、結局どの親も子どもの名前で何かしらの自己顕示欲を満たしているのである。

子育ては、それが自己を完全投影するもので、かつ様々な液体が滴るレアレアな生ものであるが故に、誰もがDQNになり得る素質を持っている。我が後悔の歴史を踏まえて言うが、往々にして子育て界隈でドヤ顔してるヤツに限って大抵イタい。

「イタさ」の自覚が人を大人にするのであって、ドヤ顔できる時点でまだまだ親として痛めつけられていない、というかまだイロイロ諦め切れていない。子ども自身に負担がなく、人を傷つけず、まして事件性もなく、自分が迷惑をかけられていない限り、人の子育てを嗤うべからず。

昼下がりの欠席裁判

思うに、日本の第4の権力機関である世間というものは、酷なのではなくつくづく親切なのだ。ニッポン民族の同質性からの逸脱を防ぐべく、他人の子育てやよそん家の子どもの名前にもわざわざ時間を割いて「非常識じゃね?」と議論する。

しかし、よその子どもの名前がアンタに何の害があるというのか。「○○ちゃんの名前ってDQNもいいところよねー。親の顔が見たいよね、って、ヤダあの親、毎日見てるじゃなーい」とヒマな園ママによる昼下がりの欠席裁判が繰り広げられるのは想像に難くない。

だからみんな「自分のところは大丈夫か」と恐々とするのだ。そんな価値観に息苦しさを感じない者は、外気に触れることなく末永くその守備位置にとどまるのが良い。そして少しでも息苦しさを感じる者は、そんな村を卒業してはいかがだろう。


河崎環河崎環
コラムニスト。子育て系人気サイト運営・執筆後、教育・家族問題、父親の育児参加、世界の子育て文化から商品デザイン・書籍評論まで多彩な執筆を続けており、エッセイや子育て相談にも定評がある。現在は夫、15歳娘、6歳息子と共に欧州2カ国目、英国ロンドン在住。