クリスマスまで1週間となった先週末、イギリスの新聞やTVでは「ピンク色のおもちゃは性差別的か」という話題がちょっとしたブームとなっていた。話題の引き金となっているのは “Pinkstinks” (=ピンクサイテー)というサイトの反ピンクキャンペーンである。
英インディペンデント紙の報道
英ガーディアン紙の報道

pink

ロンドンの老舗高級玩具店が店内デザインを変更する騒動に

双子の姉妹が、母となり、一方は男の子二人、他方は女の子二人を持って、男子のおもちゃは青、女子のおもちゃはピンクと、すっかり分けられている傾向に疑問を持ったのがこの運動の始まりだという。

ツイッターを使った展開が大きな影響力を持ち、日本で言うと銀座博品館にあたるような老舗高級玩具店、ロンドンの「ハムリーズ」までがその店内デザインを変更したので物議を醸した。

「なに言ってるの、ピンクは素敵よ!」という女性からの反論も出、“Pinkstinks”には「レズじゃねーの」「ブス」というお決まりの中傷も送られているそうで、さもありなん、である。

色彩による子どもへの性差別刷り込みの話は、特段新しい視点ではないどころか、日常トラブルなく生きていく上で、フェミニズムや人種的平等など、政治的正しさが何を置いても大事なアメリカでは、20世紀に既に終了している議論。

だが、イギリスで今になってこれだけ再燃しているところをみると、イギリス人の保守性というか、これまで伝統という名の下、いかに唯々諾々と男女の役割別マーケティングを受け入れてきたかがうかがえて面白い。「我々はずっとこうやってきた」が常套句の英国、頑固な保守というのは思考停止している分、むしろ素直なのである。

ピンクは「桃色」、とても性的な色

私はピンク攻勢に積極的に抗うガッツはないが、ピンクをみると「あぁガーリーだなぁ」と思うほどには、ピンクをオンナ性のアピールだと受け止めている。自分のこれまでの人生ではあまり選択しない色だったし、今もまず選択することはない。

娘の洋服も、紫や青や緑の組み合わせが多かった。母娘ともにピンク方面に走らなかったのは、単にピンクを愛でる層とは方向性が違ったからである。私にとってのピンクは、可愛い色ではない。成熟を待つオンナの象徴的な色で、「桃色」で、とても性的な色だ。

2000年代初頭の10代から20代後半の女子が、援交したり自分の給料を注ぎ込んだりして黒基調のシャネルと共にベビーピンク基調のディオールを愛で、ゴスロリが黒いレースの出で立ちにショッキングピンクを配するように、ピンクは強い性的アピールを秘めた色だと思う。

時にチープな洋服屋などでピンクばかりの店内に遭遇すると、むしろその空間に発情のにおいさえ嗅ぎ取り、しばしば辟易する。しまいには、更年期対策などで「ピンクを着ると女性ホルモンの分泌が助けられます」などと中年や熟年女性誌に書いてあるのを読むと、やはりピンクは女性ホルモンブースターなのだなと妙に納得する次第である。

ピンクのおもちゃは「二極マーケティング」そのもの

ピンクのおもちゃにまつわるこの議論の中での私の発見は、何よりもおもちゃ業界における「二極マーケティング」の存在であった。おもちゃ業界は80年代の昔から、ピンクと青というような2つのものを用意することで、売り上げを増やせると知っていたのである。なるほどそうか、と膝を打つ。

選択肢が2つ用意されていれば、人はそのどちらかを選ぶことで自主的に選択したと錯覚する。実際には2種しかないのに、満足してしまうのである。ピンクとブルー、右と左、資本主義と共産主義、韓流と嫌韓、リア充とネト充、何でもいい。

「何か」対「アンチ何か」の二極で発想した時点で、思考は座標平面上に固定され、その「何か」からは自由でなくなるという皮肉が生じるのだ。その場にがっちりと埋め込まれ囚われ、本当はまるで自由な選択などしていないという事実に気づかないまま「自由」を謳歌するのである。

だから、ピンクがどうかなんてどうでもいい。ただ、疑問なくピンクで周辺を飾り立てるということは、オンナ性に期待される役割に同意の一票を投じ、オンナ性ドリブンの生き方に身を任せることなのだろうなぁとは思う。それは善し悪しではなく、例えばSだったりMだったりというのと同じレベルで個人の嗜好である。


河崎環河崎環
コラムニスト。子育て系人気サイト運営・執筆後、教育・家族問題、父親の育児参加、世界の子育て文化から商品デザイン・書籍評論まで多彩な執筆を続けており、エッセイや子育て相談にも定評がある。現在は夫、15歳娘、6歳息子と共に欧州2カ国目、英国ロンドン在住。