我が家の小学生が夏休みに入った。夏休み、母親として何が辛いといって、その小学生の昼飯作りに尽きる。給食という制度の有り難味に心から平伏したくなる瞬間が毎昼のように訪れる。いつもなら夕飯だけに頭を悩ませればよかったものが昼飯まで……ハッキリ、重圧だ。


だいたい中年真っ盛りな母親のヤワな胃腸に対し、成長期まっただ中にある小学生女子の食欲はあまりにも容赦ない。昨年(小学3年生)までは学童にお世話になっていたものだが、そのとき持参させていたお弁当からしてもう、過日の園児弁当の面影は無い。見た目も量もがっつりを所望、量的には既に父親に持たせる弁当を凌駕していた。

その点でいえば今年は、お弁当じゃないだけ手間からしたらマシである。諸般の事情で「作れなかった」場合にもリカバリが効く。実際、母親の体調が思わしくないとなれば子はあっさりお使いを申し出てくれる。しかし買って来られる量と金額のことを思うと、母はムクリと起きあがらざるを得ない。

まあどっちにしても、「お腹いっぱい食べたいのー!」と所望されること自体、どうも親にとってかなりなプレッシャーとなっていることに、最近になって気づいた。果たしてこの「おなか一杯にさせて!」という、要求の持つ圧力……この根源に思いを馳せるだに、間違いなく「授乳」のあの頃にまで遡ることができる……気がするのである。
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子どもを産み、その子をとにかくは生かし続けなければならないとなった時、子の「食べ物」として最も手っ取り早い「母乳」。いわゆる完全栄養食品であると言われており、それだけ摂取していればカロリーもミネラルも充分。赤ん坊にとってバランスの良い食生活が保証されるといわれている。

そのうえ基本的に無料とあらば、なんとか出して飲ませようと思うのはシンプルな選択である。がしかし、母乳がそう簡単に出るわけではないという事実には、不肖筆者、子どもを産んで初めて対峙した。まともに母乳を出すことがあんなに大変なことだなんて、産んでみるまで全然、知らなかった。

新生児室の授乳ベンチには、いつも20数人の母親が横並び。みな真剣な表情で赤ん坊を抱き乳を含ませていた。でもイメージ通りに「グビグビ」飲むような赤ちゃんなど、超レア。出ない乳、飲まない赤ちゃん、母親は涙目、赤ちゃんは号泣。で、後から粉ミルクを足されて事なきを得る(体重を増やさなければならない)というパターンを踏むために一日8回、小一時間もこうしてベンチに座っているわけである。

筆者が最初の赤ん坊を産んだこの病院の「退院時完全母乳率」とやらは、なんと30%にも満たなかったのであるが(この数字は多分、当時も今もかなり低い方であるとは思う)、ともかく「産めば自動的にピューピュー出るわけではない」現実に新米母は震撼していた。筆者の場合は何とかかんとか完全母乳で退院できたものの、ちゃんと足りているだけ出ているのかどうかがどうも判じられず、とても不安であった。

退院後も頑張って母乳哺育を試みるも、折々訪れた実母や義母などから悪意無く「おっぱい足りてないんじゃないの?」という思いやり溢れた・新米母を崖から突き落とす言葉がかけられる。そう言われて「足りてます!」と自信満々答えられる親も、喜ぶ親も絶対いないのだけどなあ、と思う。まあ「足りてないんじゃないの」と言われぐらついた心は容易にバランスを崩し、結果出るものも出なくなる(母乳もうんこも)なんて、哀しいけどよくある話だったりする。

だいたい、可愛いわが子が自分のせいで「おなかが空いた」と泣くことほど、情けなくやりきれないことはない。ほんとにほんとに情けなくやりきれないのだ。「私なんかがお母さんでごめんね」と赤ん坊を前にどれだけしょうもなく泣いたか知れない。赤ん坊が、赤ん坊じゃなくなったって母はよく泣いた。でも頑張って生かし続けた。必死に母乳をひり出し、粥を炊き、握り飯を作り、肉を焼き、野菜を茹で、食わせ、食わせ、食わせまくった。

この「死なないように」「食わせまくり」な日々とは、絶対に休めないノンストップ且つエンドレスな営為である。冷静に考えるほどに、想像を超越する責任の重み。目前の子の笑顔が、何やら奇跡に思えてくる。

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とはいえ食わせ過ぎれば肥満児と言われ、食わせなければ虐待で、小食な子の乞うままに与えれば偏食と言われ、歯磨きしてても虫歯になれば母のせい。もうとにかくあらゆる些事の責任の所在はすべて母に在り!と言われればもう「食わせる」という基本からして千辛万苦、四苦八苦、艱苦辛苦でハラホロヒレハレというものだ。

これはまた冷静に考えてみるだに、いささかおかしなことで、多分実際は「食わせる」だけに注力するくらいでちょうどいいのだ。母なんて。ほらあのツバメのお母さんを見れば分かる。多分母の仕事などというものは、産んだ後そんなもんでいいはず。はずなのだ……はずなのだが、しかし。

子に基礎疾患や食物アレルギーがあればなおのこと、無くても「口から入るものが身体を作る」のは確かであり、ゆめゆめそこを軽視するわけにはいかないご時世である。ともかくは食べさせようと懸命な親に対して、さまざまの情報が降りかかり、その肩をつかんでぶんぶん揺さぶってくるのだ。

「ただお腹一杯にすりゃいいってもんじゃないわよ!」「添加物のことは勉強してるんでしょうね?」「残留農薬のことも気にしなさいよ!」「牛乳でカルシウム取るのよ」「でもモー毒よ」「砂糖は悪魔よ!」「1日30品目!」「お肉だけじゃだめですよ!」「バランス良く好き嫌い無く!」「やっぱり子どもには良いものを与えないと!」「放射能も気にして!」「脳のためには魚を!」「でも魚は水銀が心配!」「ファーストフードとスナック菓子と清涼飲料水を与えるなんてバカ親!」「玄米菜食!」「地産地消!」「身土不二!」「などなど!」

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偏頭痛にのた打ち回って「今日はもうご飯作れない……」と布団に倒れてしまった、先日の夜のこと。母の様子を見て9歳の長女が静かに台所に立ち、炊飯器をカパと開けて塩むすびを黙々と作り始めた。

台所の入り口に、5歳と1歳の妹たちが侍って姉とぺちゃくちゃ喋っている。その声が聞こえてくる。「……ご飯が炊いてあってよかったねえ」「おむすび、大好きー」「はやくおねえちゃんはやく」「お母さん参ってるね……」「お父さんの携帯に電話した?」「会社出たって」「お父さんの筑前煮が残ってればよかったのに」「お姉ちゃんおむすび、おいしいねえ」……母は、やや泣けた(いろんな意味で)。

別の日、もっとも食の太い長女が6枚切り食パンの袋を父親に所望して買い、家族に掲げてこう言った。「これ、私専用のパンね。おなかすいたらとりあえずこれ食べることにするから、みんな食べないでね」。

へっ?と戸惑いつつ、ふと、三度の食事では足りずに学校の部室やロッカーの中に「マイ非常食」をいつも蓄えていた自分の思春期を思い出し「もしやこれは」と思い至った。

もしやこれは、いわゆる母親の支配からの、ささやかな脱出行為なのではないか。自立……。ああ、この子は遠からず母親が必死こいて食事の支度をしなくても、自分で何かをこしらえてしのぐことが、もうできる。そうかあ、そうかあ。ふっと肩が軽くなるような気持ちと、ほのかな寂しさが、6枚切り食パンに被って見えた。


子どものための飯炊きは辛い。なにせ、休めないから辛い。ああ辛い、つらいなあ!!!
つらいつらい。スゲー辛い。

……でも、これ期間限定の「辛い」だ。

「辛い」を味わおう。


藤原千秋藤原千秋
大手住宅メーカー営業職を経て2001年よりAllAboutガイド。おもに住宅、家事まわりを専門とするライター・アドバイザー。著・監修書に『「ゆる家事」のすすめ いつもの家事がどんどんラクになる!』(高橋書店)『二世帯住宅の考え方・作り方・暮らし方』(学研)等。9歳5歳1歳三女の母。