ひとつ、謝らなければならないことがある。私はここ10年ほどネットで(細々と、時々)子育て界隈の物書きをしている、幸薄い女である。
10年ほど前といえば、育児サイト黎明期、そして初めての子どもを若くして育てていた頭でっかちの私は、いわゆる“意識高い”系の団塊おばさんたちの言説に従順に、「育児は育自」なんていう気持ちの悪いマントラを信じていた。
どうやらこの「子育てを頑張る、子どもと向き合う、それは自分育てに繋がる」という、時代を先取りした“育てゲー”発想は、あの頃1970~80年代に子育てをしていた、向上心あふれ、努力大好きな団塊おばさんたちに共通のものらしい。そういうおばさんは日本にも欧州にもわんさかいて、私はどうにも話が合わない。

10年ほど前といえば、育児サイト黎明期、そして初めての子どもを若くして育てていた頭でっかちの私は、いわゆる“意識高い”系の団塊おばさんたちの言説に従順に、「育児は育自」なんていう気持ちの悪いマントラを信じていた。
どうやらこの「子育てを頑張る、子どもと向き合う、それは自分育てに繋がる」という、時代を先取りした“育てゲー”発想は、あの頃1970~80年代に子育てをしていた、向上心あふれ、努力大好きな団塊おばさんたちに共通のものらしい。そういうおばさんは日本にも欧州にもわんさかいて、私はどうにも話が合わない。

子育ての終わった今でも向上心を忘れず、社会貢献に励んでいて、孫育てにも充分口も手も出し、自分の娘世代の若い母を見つけてはその子育てにさりげなく評価を与え、会話が説教じみている。
「優れた子ども」を育てた経験と自信を携え、今度は孫育てに執心するおばさん。努力大好き。だって、子育ても孫育ても「自分育て」だもの。なんなら曾孫も育てかねない勢い。
「おばあさま」の知恵、炸裂である。アタシはアンタの娘でもなければ部下でも生徒でもないんだから、赤の他人のアンタに子育てを評価されたくないっつーの、という光線を出すのだが、分厚い面の皮でブロックされてぜんぜん効かない。
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この、「育児は育自」というのは、左翼思想の影響を受けたのに家庭に入り、子どもを使って自己実現するしかなかった、あの世代の母親たちのマントラである。
田舎で出来の良かった娘さんが都会に出てきて、核家族で母親が子どもとマンツーマンで向き合わざるをえなかった時代を、そう自分に言い聞かせてしのいだ、「意識の高いお母さん」たちのマントラである。
だから、現代でも「意識の高いお母さん」に育てられた「意識の高い娘」が、子どもを産んでからよくうっかり口にする(経験者談)。これがまた、遭遇率が高い。つまりは結構浸透しているということなのだ。
でも、子どもを育てるという役割以外に自分を育てる方策がなかった時代、女が社会に関わる方策が乏しかった時代の産物なのに、21世紀の私たちがわざわざ20世紀にタイムスリップして、そんなマントラ唱えながら自分を責める理由がどこにある?マゾか。
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「育児は育自」のフレーズには、子どもを母親が抱え込んで、つきっきりで育てねばならないという強迫観念や、いわゆる「3歳児神話」への疑念を瞬間的に和らげる、自家中毒のリスクが満載だ。
あなたのそのツラい育児には意味がある、だってあなた自身の成長のためなのよ、てなもんだ。これが宗教でなくてなんだ。私は「育児は育自」と口走る若い母親を見ると、頭の中で「コイツやべぇ」の警報が鳴るようになっている。自家中毒にやられ、彼女は間もなく壊れていく。いずれ立ち直るにせよ、一旦大きく壊れる。それが見えるからだ。自分もやったからだ。
子育てにがっつり取り組むことは自分の成長のためだ(いや、1割くらいは仕事のネタかもしれないが)と思っていたアホウな私は、子どもの中学受験のストレスで結構な情緒不安定となり、受験結果を報告した田舎の先祖の墓前で、「ありがとうございましたぁぁぁ」と泣き崩れた。一度も会ったことのない、ダンナ方のじいさんの墓前である。それくらい一杯イッパイだった。なに、その突然の先祖信仰と「子孫繁栄」的発想。痛すぎる。
頭の冷め切った今なら、「誰か突っ込んであげてー。じゃないとオチないからー。」と笑うこともできるけれど、当時は大真面目だった。怖いわ~、突然の憑衣。オカルトとか都市伝説の類である。
それがリアルになってしまうほど、強迫観念に駆られている母親の精神は常軌を逸する。私の「墓前泣き崩れ事件」なんて痛いだけだが、追いつめられた母親たちによる社会問題や陰惨な事件はたくさんある。
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だから「育児は育自」などというそれらしいフレーズを使って、母親を追いつめてはいけない。団塊おばさんたちの時代とは違い、育児は母親だけのものではない。現代の育児は、貢献度と存在感の両面で、父親を含めた家族のものだ。
そして、少子高齢化を迎えたいま、育児は社会のものとなるべきだ。団塊おばさんたちは、本当はそれを自己反省的に知っているはずなのだ。
でも、彼女たちはあの涙が滲んだマントラを手放せない。それは、「育児は育自」を否定したら、「優れた子どもを育てた」自負に拠って立つ、自分たちの優れたはずの人生をも否定することになるからだ。彼女たちには、あの時代ゆえの理由があった。けれど、罪作りなマントラにはきっぱりとお引き取り願おう。
「優れた子ども」を育てた経験と自信を携え、今度は孫育てに執心するおばさん。努力大好き。だって、子育ても孫育ても「自分育て」だもの。なんなら曾孫も育てかねない勢い。
「おばあさま」の知恵、炸裂である。アタシはアンタの娘でもなければ部下でも生徒でもないんだから、赤の他人のアンタに子育てを評価されたくないっつーの、という光線を出すのだが、分厚い面の皮でブロックされてぜんぜん効かない。
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この、「育児は育自」というのは、左翼思想の影響を受けたのに家庭に入り、子どもを使って自己実現するしかなかった、あの世代の母親たちのマントラである。
田舎で出来の良かった娘さんが都会に出てきて、核家族で母親が子どもとマンツーマンで向き合わざるをえなかった時代を、そう自分に言い聞かせてしのいだ、「意識の高いお母さん」たちのマントラである。
だから、現代でも「意識の高いお母さん」に育てられた「意識の高い娘」が、子どもを産んでからよくうっかり口にする(経験者談)。これがまた、遭遇率が高い。つまりは結構浸透しているということなのだ。
でも、子どもを育てるという役割以外に自分を育てる方策がなかった時代、女が社会に関わる方策が乏しかった時代の産物なのに、21世紀の私たちがわざわざ20世紀にタイムスリップして、そんなマントラ唱えながら自分を責める理由がどこにある?マゾか。
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「育児は育自」のフレーズには、子どもを母親が抱え込んで、つきっきりで育てねばならないという強迫観念や、いわゆる「3歳児神話」への疑念を瞬間的に和らげる、自家中毒のリスクが満載だ。
あなたのそのツラい育児には意味がある、だってあなた自身の成長のためなのよ、てなもんだ。これが宗教でなくてなんだ。私は「育児は育自」と口走る若い母親を見ると、頭の中で「コイツやべぇ」の警報が鳴るようになっている。自家中毒にやられ、彼女は間もなく壊れていく。いずれ立ち直るにせよ、一旦大きく壊れる。それが見えるからだ。自分もやったからだ。
子育てにがっつり取り組むことは自分の成長のためだ(いや、1割くらいは仕事のネタかもしれないが)と思っていたアホウな私は、子どもの中学受験のストレスで結構な情緒不安定となり、受験結果を報告した田舎の先祖の墓前で、「ありがとうございましたぁぁぁ」と泣き崩れた。一度も会ったことのない、ダンナ方のじいさんの墓前である。それくらい一杯イッパイだった。なに、その突然の先祖信仰と「子孫繁栄」的発想。痛すぎる。
頭の冷め切った今なら、「誰か突っ込んであげてー。じゃないとオチないからー。」と笑うこともできるけれど、当時は大真面目だった。怖いわ~、突然の憑衣。オカルトとか都市伝説の類である。
それがリアルになってしまうほど、強迫観念に駆られている母親の精神は常軌を逸する。私の「墓前泣き崩れ事件」なんて痛いだけだが、追いつめられた母親たちによる社会問題や陰惨な事件はたくさんある。
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だから「育児は育自」などというそれらしいフレーズを使って、母親を追いつめてはいけない。団塊おばさんたちの時代とは違い、育児は母親だけのものではない。現代の育児は、貢献度と存在感の両面で、父親を含めた家族のものだ。
そして、少子高齢化を迎えたいま、育児は社会のものとなるべきだ。団塊おばさんたちは、本当はそれを自己反省的に知っているはずなのだ。
でも、彼女たちはあの涙が滲んだマントラを手放せない。それは、「育児は育自」を否定したら、「優れた子どもを育てた」自負に拠って立つ、自分たちの優れたはずの人生をも否定することになるからだ。彼女たちには、あの時代ゆえの理由があった。けれど、罪作りなマントラにはきっぱりとお引き取り願おう。
![]() | 河崎環 コラムニスト。子育て系人気サイト運営・執筆後、教育・家族問題、父親の育児参加、世界の子育て文化から商品デザイン・書籍評論まで多彩な執筆を続けており、エッセイや子育て相談にも定評がある。現在は夫、15歳娘、6歳息子と共に欧州2カ国目、英国ロンドン在住。 |
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