前稿、前々稿と書かせていただいたこのテーマ、その後ちらほらと拙稿の感想や個々の考察をお寄せいただき、ありがとうございました。

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のぞきたい 隣の育児と 晩ごはん:序
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のぞきたい 隣の育児と 晩ごはん:家族の勝手でしょ!
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多くの方は(私も実際のところ大人になってからはそうだけれども)、他家の食卓にいちいち「えっ?」「信じらんない」と思っても概ね口には出さず、ただ驚きとして記憶に備蓄し、ごくまれに反芻している様子。けだし大人である、と改めて感服した次第です。


しかしてその「えっ?」と感じる客体が結婚相手の実家であったりすると、なかなか他人事として看過もできず、悶々とせざるを得ない……ようでもある様子。難しいですね。

また、「えっ?」の母体、自分自身の育ちのなかにある「当たり前」感・「普通」感というものの根深さ、それと相反する心許なさに気づいた時「不安」を感じる人と、「だから何?」と動じない人。そんな二分がなされるようである印象。

或いは、ハナから「食」への興味・関心を持っていない人も厳然としているようす。また、興味・関心の多寡を問わず「ひとんちが何食べてるかなんて気にしたことも無い」という声もありました。ありがとうございました。

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ともあれ、だ。「信じられない」「ありえない」という否定的な感情の源には、自分自身の(個人的な)育ちと、そこで育まれた家庭の価値観が大きく影響しているのは疑いのないところだろう。そういった、ごくごく個人的な根拠でもって他人の生活を否定、「あり得ない」と斬ることの傲慢。個人的経験は決して「正」と同義ではあり得ないのに、そういう単純な態度で人の生活に立ち入ってくる声のいかに多いことか、思い知りもした。

しかしとかく「今どきの母親は」という言い方をして、その行状を糾弾をしたいと欲している誰かが「世の中には」いる。「今どきでない母親」がどれほどに立派だったのかという証左は、個々自身の思い出の中にしかないのに、である。

「今どきの母親はラクばかりしようとしている!怪しからん」の後ろには、概ね「それに引き換え、自分の老母は若い頃、あんなことやこんなことを厭わずやってくれた、あれこそが真の母の愛!」と懐かしみ尊敬の念を寄せる言葉が続く。親への感謝を綴るのはどういういきさつであれ、親孝行なことで素晴らしいし、そんな親御さん自身も素晴らしい。それは否定はしない。

思うに、前々稿に書いたように、私が中高生の頃また大学生になったばかりの時分、他家の食生活をうかがい知る機会をもって「信じらんない!」と思えたのは、ひとえに私の母がそれなりの食生活を私に送らせてくれていたからに他ならない。それは単にありがたいことであると感謝すべきであるし、している。しかし、である。

私の親がたとえどれほど素晴らしく、立派だったとしても、それは私の功績ではない。
それは「私の功績」ではない。
大事なことなので2回書いておく。そこをゆめゆめはき違えてはいけないのである。

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実は、「信じらんない」「あり得ない」という否定の感情が興味に回り、後年、私はタブーにあえて挑戦してみるが如く食生活をガタガタにしてみた時期がある。ある意味あれは思春期的反抗の一種だったのだろうか。母なる者のしつらえる食卓、その支配からの卒業、と言った意味合いもあったのかも知れない。あるいは、ヴィーガンやマクロビオティックの家に育った子がジャンクフード狂いになるようなものの、もうちょっとマイルド版だったのかも知れない。

一日三食をシリアルのみにしてみたり、お菓子を夕飯にしてみるといったことは、親元を出て一人暮らしを始め経済的に困窮したとき事も無く乗り越えてしまった負のハードルである。やってみれば呆気ないほど簡単で、空腹に眠れないといった事も特になく、案外普通だったので驚いたのだ。ただ、心の中は「悪いことをした」気持ちに苛まれ、そのせいで多分、胃が痛んだ。

今日日珍しくもない「コンビニ弁当」「コンビニ揚げ物」「コンビニおでん」「スーパーのお惣菜」を初めて購入するときの罪悪感というのも、実のところ凄まじいものがあったことを告白しなければならない。私の育った家庭では(というか実母のロジックでは)「そういうものを食べる人、食べさせる母親」は即ち“人間失格”扱いだったからだろう。

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子どもにとって、親の価値観は往々にして絶対である。生まれて初めてそれらの食べ物をレジに運んだ時、「私、もう終わりだ」と本気で思ったことを、思い出す。これはしつこい観念であり、後年母親になって体調不良時にしばしばこれらのお世話になる折にも、小さく心の底で「失格、失格」と囁く声がどこかからか聞こえた。いや、今でも聞こえていたりする。

そう。「体調不良」については、追記しておかなければなるまい。前稿で紹介した【食DRIVE】の調査の中に、食事の支度ができなかったり簡単なものしか用意できない理由として、「体調不良」「疲れ」を訴えたりあげたりする主婦が多いという項目があった。この話題に、まったく他人事ではない感を私は抱いた。

自分自身、子どもを身籠り産んで以降、しばしば夕方以降はどっと疲れが出てしまって「ご飯を作る気力体力がもう無い」という事態に陥っているからだ。

妊娠中に特にこの傾向は顕著で、夕方になるに連れ、つわりが悪化したり、子宮が張るなどして横にならざるを得ない状態になった。「夕方まで体力をもたせる」がために昼寝をしたり、朝のうちに夕飯の支度を済ませてしまったり、大鍋でポトフを作り、3~4日間繰り回して食べる(ポトフ→野菜スープ→カレー)ようにしたり、くふうできる時はくふうもする。

でも、私はある理由があって食べる直前までメニューを決めないということを実行していたので(詳細は後述する)、なかなかそれが徹底できなかったのだ。

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「食生活をガタガタにしてみる」話に戻ろう。中学時代には驚いた「夕飯は、ご飯に塩だけ」のタブーも、「今日は食欲がないから、塩むすびだけ」という形に変わって後年実行されたし、コンビニサンドイッチと缶コーヒーのみの昼食などに至っては、大人になって以降、数えきれないくらい繰り返した。

添加物その他の問題を差し引けば、「お菓子でごまかすより数倍まとも」な印象すらもはや受けるベーカリーの総菜パンを一食にカウントするのも、当然の営為と化した。昔に驚愕したタブーの多くは、善し悪しはともかく乗り越えてみさえすれば難ないものばかりだったのだ。

それでも何でも1週間というスパンで見た時、タブーな状態も理想具現化の状態も、それだけを延々繰り返すという事はないのがギリギリの「私の食」の現状・立ち位置である。拙稿「序」でも書いたが、筆者である私自身、どちらかといえば「食に興味のない人」だ。ぼーっとしていると、すぐに「そちら側」に傾いてしまう。

仕事に没頭すれば容易に食を忘れるし、ここ一番という時には食べて挑むのではなく食べずに挑む。遠い未来に人の食がすべてラミネートチューブの中のゼリー飲料になったとしたら、そいつはラクでいいなあと思ってしまう程度に食への執着も無い。

「こんな自分」が何とかかんとか食べて行けているのは、私とは異なり食を愛す育ちを持つ配偶者が、ところどころで生活を軌道修正してくれているという事と、「それでも食べなければ」という己の義務感から編み出したいくつかの「食べるくふう」を時々実行しているからである。

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私が編み出したので私にしか効かないくふうかも知れないけれど、同類の方には幾つか参考になるかもしれない。念のため、記しておきたい。

【1】食事づくりを「クリエイティヴィティの発露」と位置づける。家庭科ではなく、理科あるいは美術。義務・ルーティンではなく、自己表現(と思い込んで、やる)。

【2】食事づくりのモチベーションを後押ししてくれる書物を携える。個人的には『年収100万円の豊かな節約生活術』、『きのう何食べた?』、そして件の『家族の勝手でしょ!』。

【3】食事を作る人にメニュー決定権があると家庭内で周知する。よって、私が作る時には、私が本心から食べたいと欲するものを優先して作る。

【4】食事は、いつでも、「完全な空腹感」を覚えてから摂るようにする。お腹が空いていないのに無理に食べない。

【5】食に関する情報には常にアンテナを張っておく。


最後に。家庭の「食」の問題を、すべて「女親」「母親」の責任に帰すこと自体が、既に時代の要請にかみ合っていないという点を指摘していったんここを締めたい。先般、某大手商社のトップが「弁当男子は出世しない」ということを仰って、ネット上での炎上を誘っていたものだが、団塊の偉い人と言うのは、大変牧歌的な感覚でおられるのだなあと筆者は感慨深く思った。

いま食事を、弁当を作る男性の多くは何もウキウキの「趣味」で作っているわけではないだろう。むろん、聡明な人が家事を行う際に心に留める内心の呪文の一つに、そのような前向きさや趣味的な「楽しむ」要素を加えることが皆無かと言えばそんなことも無いのだろうが、多くは経済的要請や自身の健康維持、家族を思う意思などが含まれている、「生きて行くため」の営為の一つではないかと筆者は考えている。

「食」にまつわること、「そのようなこと」を男女を問わずすべて含めて思案し、行動し、生きて行くのが「当たり前」という意識が、いま・現代の家族のありようとして反映され始めている。けれども、後を追うものは先を行く者の足を引っ張りたがるし、出る杭はとかく打たれるものだ。「弁当男子バッシング」はそんな感情の発露の一種なのだろうと思う。

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そもそも、のぞき見た「隣の晩ごはん」に感嘆しても、震撼しても、それだけでは目前のこの食事は何も変化しない。

それでも私たちは霞や水だけで生きるわけではなく、食べたものが身体のすべてを形作っていく事実を無視しては生きていけない。そういうことを一切知らなかったり、気づいていないわけでもないのに引き続き菓子を食事として食し、子に与え続ける親がいるならば、その行為は「病み(闇)」のなかにあると思えてならないし、あるいは自分の中にすら、そのような生への捨て鉢さや病みを見出すかもしれない。

ヨネスケが『突撃!隣の晩ごはん』コーナーを2011年に終えたのはそんな「闇」をどこか垣間見過ぎたからなのかもしれない。


……そして、「隣の育児」については、また場を改めて触れたいと思う。


藤原千秋藤原千秋
大手住宅メーカー営業職を経て2001年よりAllAboutガイド。おもに住宅、家事まわりを専門とするライター・アドバイザー。著・監修書に『「ゆる家事」のすすめ いつもの家事がどんどんラクになる!』(高橋書店)『二世帯住宅の考え方・作り方・暮らし方』(学研)等。10歳6歳2歳三女の母。