4年に渡る欧州駐在を終え、ひさびさ日本に帰国したら、テレビも音楽も雑誌も、いわゆる「ハーフ」の若いタレントであふれていた。

日本を出るときには「ハーフ」といって思いつくのは、羽賀研二とかマイコー富岡とかベッキーとか土屋アンナくらいだったので、「ほー。それだけハーフの子どもが増えたんだな、国際結婚が一般的になったんだなぁ」と実感したんだが、なんだかちょっと想像と違う。


彼ら、日本人離れしたルックスの恩恵を享受して、「いかにもガイジン」っぽく見えるのだが、仕草とか様子が日本人ぽく見慣れた感じで目に優しい。

それもそのはず、最近日本でウケているハーフタレントの多くは、「こんな濃いルックスなのに英語(外国語)が喋れません。むしろめちゃめちゃ日本語うまいです!」という、見た目と現実のギャップが一種のテンプレートのようなのだ。まぁ、その「ギャップ」だって、いかにも日本らしい偏見があって、一方的な思い込みなんだけどぬー。


外国語を喋らず日本語で育っているから、仕草もアクセントも喋り方も、日本人そのもの。他の日本人タレントも安心して絡むことができて、視聴者も安心して見ていられる、というワケで、安全パイが大好きな日本のバラエティなどで重宝されているようだ。

■欧州の日本語補習校で見たハーフの子どもたち


筆者が欧州にいる頃、平日は現地校に通って英語で暮らしていた我が家の息子は、土曜日は日本人学校で開かれる日本語補習校というものに通っていた。その補習校にいわゆるハーフがとても多く、およそ数百人の全校生徒の半分は、親のどちらかが外国人という印象だった。

一昔前、例えば私が小さい頃などは、在外の日本語補習校に通うような子どもは親の海外赴任についていったような日本人の子どもがほとんどだったから、隔世の感ありだ。

それだけいわゆる「国際結婚」の件数が増えたということなのだろう。ロンドン近郊在住のハーフの子どもたちが、毎週土曜の朝に車で片道2時間かけてでも親に連れられて日本語を学びに来る姿を見て、日本人家庭の我が家も、「週末も学校なんてメンドくさい」とか、「日本語なんて、家で喋ってたらテキトーに維持できるじゃん」なんて弱音や愚痴を封印した。

「ハーフ」の子どもたちの場合、特に親が真剣だった。国際結婚をした日本人の親(特に母親)には、「日本語を自分が教えなければ、誰が教える!」という危機感があるのだという。小さいうちからベビーサークルなどで日本語に触れさせ、日常生活では多言語で育ち、バイリンガルやトライリンガルとなる。

こういう子どもは、国家間の行き来が多い欧州や、もともと人種のるつぼの大都市などでは珍しくも何ともない。「お父さんはイギリス人でお母さんは日本人、おじいちゃんは中国人でおばあちゃんはイタリア系スイス人なんだけど、そもそもの祖先はギリシャなんだよねー」、みたいな状態のひとがたくさんいる。日本人か否かの二元論ではなくて、「自分は何人(なにじん)であると認識しているか」という禅問答のようなことになってくる。

だから、彼らにとって言語と食べ物は、そのまま大切なアイデンティティなのだ。どこの言葉を伝え覚え操り、どこの料理を家族の集まりの時に食べるか、つまりは国家そのものよりも、家族や暮らしのあり方がそのままアイデンティティとなる。それゆえに、彼らは日本語を「選択的に」真剣に学びに来る。

■「ミックス」という表現が提唱されたことも


筆者の幼少期、ハーフと言えばハンサムや美人の代名詞だった。「ハーフみたーい♪」は褒め言葉だった。そして、その場合の「ハーフ」とは、日本人と白人の混血を意味していた。

それ以外の組み合わせのハーフは、ちょっと別の語られ方をした。ハーフを持つ日本人の親の中にも、不思議な反応がある。ハーフの子どもを連れた日本人の母親に、「お母さんに似ていますね」と声をかけると、「そんなことないですよ!」の全力否定が返ってくる。おや、この反応は何だろう? 日本人顔はそんなに避けるべきことなのかという疑問さえ感じることがあった。

ハーフとは、そんな奇妙なコンプレックスと微妙な特権意識も入り交じった、存在自体がちょっとセンシティブで複雑な子たちでもあった。


ハーフという呼称が見直され始めたのは、20年ほど前からだろうか。「この子たちはきちんとした一人の人間で、一個の人格だ。『ハーフ』なんて、不完全な半分みたいに呼ぶのはおかしい」という、まさにその「ハーフ」の子どもを持つ親たちからの訴えかけで、「ミックス」という表現が提唱された。

日本人であることをまるっきり当たり前だと思い込んでいる、私のようなノンポリ平和ボケ平たい顔の日本人と違って、見た目からして日本人離れしていたり、日本以外のカルチャーをもっていたりする子どもは、幼い頃から「自分ってなんだろう?」ときっといろいろ考えるだろう。素敵なことも、逆にキレイなばかりじゃないあれこれも、いろいろ見聞きするだろう。

でも、日本では決して多数派ではない存在である限り、国際社会に免疫の少ない日本では、ハーフは余計なあれこれを背負わされる。まずは「白人との混血」を期待され、「ハンサム」や「美女」を期待され、英語ペラペラついでに少女マンガみたいな御曹司とかお嬢様であることもなぜか期待され、違うと分かれば勝手にガッカリされる。あれもこれも背負わされたって困ると思ってきただろう。

■ハーフ芸人による「逆転の笑い」


最近、だいぶお茶の間で見かけるようになってきたが、よしもとのお笑いコンビ、デニスの植野行雄がハーフ芸人の中でいまだ最高だ。ブラジル人の父と日本人の母の間に生まれた、大阪生まれ大阪育ちのハーフ。外見はブラジル人だけど、ポルトガル語は喋れず大阪弁をあやつる。

ロンドンに駐在していた時に動画サイトで見た、彼の「ハーフであるがゆえに勘違いされ続けた人生の不幸」ネタを、我が家は全員で腹を抱えて爆笑し、泣きながら観た。それは、「ガイジン」ゆえの誤解や排除に傷ついたことがある人ならではの、逆転の笑いだった。人間の脳は、「同じ」ことよりも「違う」ことを敏感に認識するようにできている。同質性の高い社会でみんなの脳に明らかに「違う」と認識される子どもの人生って、どんなだろう。

サンドラ・へフェリン著『ハーフが美人なんて妄想ですから!』(中央公論新社刊)によると、ハーフの子どもは右傾化することがあるそうだ。

どちらかの国を賞賛し、他方を完全否定することで、一方の仲間に入れてもらおう、同化しようとする自己防衛の心理が働く。執拗にいじめられた過去があると、受け入れてもらおうとしてむしろそちらに同化しようとする場合もある。

自分ではどうしようもないことを抱えて傷つき悩む子どもの気持ちを考えると、胸がしめつけられる。

実は、国際社会に晒されたことが原因となる右傾化は、ハーフに限らない。海外に住む日本人、しかも大人にもそういう傾向が見られるときがある。どちらかを舌鋒鋭く批判するとき、そこには他方の国に「受け入れて欲しい」願いが隠れているときがある。在外の「論客」が激しい口調になるのには、そういう気持ちが隠れているかもしれない。

葛藤を笑いという芸にするのは、相当な腕と覚悟がいる。平和な日本で生まれ育った、日本語しか喋れない「怖くない」ハーフが、その容貌のメリットを生かしてお茶の間で活躍する背中は、傷だらけなのかもしれない。

でも、日本という国を網羅しうる最後のメディアたるテレビを、彼ら「平和なハーフ」が飾る現在は、日本なりの特殊な「グローバル化(?)」の姿を表していると思うのだ。

河崎環河崎環
コラムニスト。子育て系人気サイト運営・執筆後、教育・家族問題、父親の育児参加、世界の子育て文化から商品デザイン・書籍評論まで多彩な執筆を続けており、エッセイや子育て相談にも定評がある。家族とともに欧州2ヵ国の駐在経験。