このところネットでは、ある新人歌手のデビュー曲の歌詞が話題となっている。文月メイさんが歌う『ママ』という曲だ。



千葉県出身の女性シンガーソングライターによるこの曲は、彼女自身が描いたイラストで構成されたミュージックビデオが今年3月にYouTubeに投稿されて以来、再生回数が120万回を超えている。これは新人歌手としては異例の数字だそうだ。


この楽曲のテーマは、児童虐待。
虐待を受けた子どもから、ママへの気持ちが歌詞に綴られている。

10月のデビューに先駆け9月から有線で放送する予定だったが、歌詞がショッキングであるあまり、放送が見送りになっていた。

楽曲そのものに対する賛否をはじめ、有線での放送が延期になったことの是非など、さまざまな方向からの議論が巻き起こっている。

この件を受けて一体どんな曲なのかと、私もYouTubeで視聴してみた。
さんざんネットでの議論を目にした後の視聴だったせいか、ああこういう歌詞なのか、という思いで、特にショックだとか嫌悪とかいうこともなく、逆に感動というのも違うかな、という印象。

しかし、圧倒的な「父」の不在感には違和感を覚えた。

なぜ、この歌詞には「ママ」しか出てこないのだろう。父親の存在がまるで感じられない。なぜ、主人公の「ぼく」と「ママ」しかいない世界の話なのだろうか?

同様に児童虐待をテーマにした楽曲をいくつか知っているが、それらもどういうわけか、主人公は「ぼく」で、相手は「ママ」だったりする。
どうして児童虐待を描写するときには「ママ」しかいないのだろう?

もしかしたらこれは父親がいない家庭を歌った曲で、そもそもママしかいないかもしれない、もしくは万人に分かりやすく聴いてもらうために簡略化して、ママのみ登場させているのかもしれない。

だとしたらそこは言葉のアヤのようなもので、「父親が出てこないのはどういうことだ! 虐待=母親、ではないだろう!」と突っかかるのは、それこそ重箱のスミをつつくような無粋かもしれない。

もちろん、「子どもと父親という構図の曲もあるべき」と言いたいわけではない。
責任逃れをしたいわけでも、押し付けたいわけでもない。ただ、なぜ男性は出番がなく無言なのだろう、という疑問と違和感。


実際に起きた事件をもとにした映画『子宮に沈める』が先週末、公開された。
こちらの作品も公開決定がニュースになった際、「なぜこの作品にそのタイトルをつけたの? 母親だけの問題ではないのでは?」という声がネット上では散見されていた。

このような曲や映画に胸がざわつく女性は決して少なくない。もちろん私もそのひとりで、娘が生まれてからはより敏感になった。女性がこのような報道に息苦しさを感じている一方で、男性はこういった作品の存在を知ったときにどういう反応を示しているんだろうな、とぼんやり考える。


このところ子どもに関わる悲しいニュースを耳にすることがが多く、夫が「こういうニュースを聞くと寂しい気持ちになるなあ」と漏らした。当然私だって同感だし、こんなニュースがなくなる日が来ればいいのにと思う。ただ、同時に決して他人事とは思えないような焦燥感、背筋が寒くなるような感覚を抱く。

子どもを傷つける親のことは許せないし、責めを負うべきだが、自分は絶対大丈夫だと言えるのだろうか。
「私は子どものことを愛してる。だから子どものことを傷つけるなんてことは絶対しない!」
と言い切ることは簡単だ、しかし、その「大丈夫」の根拠は果たしていつも正なのか。そこに脆さはないのか。

子どもにイライラしてしまったり、カっとなってしまったとき、その「衝動」を自覚したときに、自分で自分が怖くなってしまうことがある。薄い氷の上を歩いているような感覚。氷を割ってしまわないか、その下の冷たい水に溺れてしまわないかと、張り詰めた気持ちで恐る恐る、ひとりで歩いているような気持ち。

子育てをしてみて、自分の思いつめやすさに自分でも驚いている。
よく眠れていて精神的にも落ち着いているときであれば何てことはないのだが、夜中に目を覚ました娘が泣き出して、なかなか寝てくれないと、近所迷惑じゃないかなとヒヤヒヤしたり、ああもうこっちも眠いのに、とカリカリしてしまうことがあり、それを夫にたしなめられる、ということがたびたびあった。

冷静になってみるとまだ何も分からない娘を責める私が悪いと反省するのだが、どうしてしんどい私を慰めてくれないんだろう、とその瞬間は落ち込んでしまう。

何も妻が気落ちしているときに夫までが引きずられて深刻になる必要はないし、夫婦間に温度差はあっていいと思う。どちらかが落ち込んでいたら、どちらかが引っ張りあげて均衡を保つことで、良好な関係を維持できるものなのかもしれない。

ただ、その瞬間はやっぱり冷たい水に自分が沈んでいくような気持ちになる。
そして朝には、「何で夜中はあんなに深刻になってたんだろう、大袈裟だなー」なんて笑いたくなるのだ。


でも、世の中には冷たい水に溺れたまま、もう戻って来られない親もいる。きっとその人は、私と気質や性格がまったく違うわけではなかったのだろうと思う。

前述『ママ』の歌詞に出てきたママも、きっと溺れたまま戻って来られなかったのだろうか。腕を引っ張ってくれる誰かはいなかったのかな、と想像してしまう。


昨年公開された『夢売るふたり』という映画で、主役の松たか子さんと阿部サダヲさん演じる夫婦が、児童虐待のニュースを見て、「両親どっちもってどういうことだ、どっちかが止めろよ」という旨のセリフを言うシーンがある。

何てことはない一コマで、その後の展開に大きく関係するわけでも、何かの伏線になっている、ということもないのだが、鑑賞して1年以上経った今、この作品で一番印象的なシーンがこれになってしまった。鑑賞したときは他にもたくさん見所があったのに。産後色んなことを忘れてしまったせいだろうか……。

ただの日常の一コマのように思えたけど、あのシーンには何か意味があったのか?あったとしたらどういう意図だったのだろう。

数日考えていたけど答えが出なかったので、「ただの深読み、ちょっと深刻になりすぎたな」とこれ以上考えるのはやめることにした。

真貝 友香(しんがい ゆか)真貝 友香(しんがい ゆか)
ソフトウェア開発職、携帯向け音楽配信事業にて社内SEを経験した後、マーケティング業務に従事。高校生からOLまで女性をターゲットにしたリサーチをメインに調査・分析業務を行う。現在は夫・2012年12月生まれの娘と都内在住。