出産後の産院にて。
生まれたばかりのわが子を目の前に、ある事実にびっくりしていた。
育児書に書いてあること以外、子どものことが何も分からないのだ。産んだ瞬間、体の変化と同じぐらいの変化が、脳や心にも起きると思っていた。

私の身体の中から出てきた生き物。泣いているが、どうやったら泣きやむのだろう。母性本能があれば、子どものことが直感でわかり、身体からフェロモンのような見えない力「母性ビーム」が出て、赤ちゃんが泣きやむのでは? いくら自分に問いかけてみても、答えは返ってこない。

抱いてみた。泣きやまない。
「えっ…私の母性本能、なさすぎ…?」
両手で顔を覆う。

思えば、独り身だったころから、自分の母性本能に疑問があった。

友人の子どもと接するたびに、「恐れ」ともいえる感情を抱いていた。犬や猫に感じる可愛さと似たような感情はあるけれど、子どもをみて、母のような気持ちを感じたことがなかった。だから、子どもになつかれないと「この女の人、母性本能ないよ!」と裸の王様のように後ろ指をさされる気がした。

子どもを産めば、「母性本能」が眠りから目覚めてフル活動するだろう。その時はそんな期待を抱いていた。だが、現実は上述の通り。母性本能は眠ったままなのか、DNAに組み込まれていなかったのかな、と疑うほどであった。

それでも自分自身に母性本能があると信じた。苦し紛れに、自分の「母性のイメージ」にそった行動をとろうとした。そのイメージの中には、「赤ちゃんは母親といるのが一番」であったり、「わが子をあやさないといけないのは母親」なのだという思い込みもあった。

産後は誰かに面倒をみてもらえる機会があっても、あえて自分でお世話をしようとしていた。でも、時折訪れる、「子育てがつらい」「子どもにイラッとする」自分が、母性が少ない欠陥人間なのではと落ち込んだ。自分の時間が欲しいと感じることすら、いけないことを考えているのではと後ろめたい。誰かに弱音を吐くことは、自ら母親失格を名乗り出るような気がした。


わが子がスリ傷をつくったり風邪をひくだけで母としての資質を疑ったし、「今が一番いい時ね」と人から声をかけられると、そのときを楽しむ余裕がない自分は母性が少ないのかな、と考え込む……。

自分には母性本能があると信じれば信じるほど、十分に備わっていない自分を追いつめていた。今思うと、実体のない「母性」という概念に、自分だけでなく人から見た理想的な母親像を求め、その通りに動こうとしていた。自らの内面が乏しいことに焦り、母性に見えそうな“衣装”でごまかしすぎて、“厚着”となって、さらに動きづらくなっていたように思う。

息子が1歳半をすぎた今、改めて振り返ってみると、「母性」とは先天的には備わっていないもののような気がする。

長時間一緒にいることによって、パターンとしてどんなことをすれば泣きやむ可能性があるのかを学ぶ。ただしそれは、消去法や可能性なだけであって、泣きやまないものは泣きやまないし、母性でなんとかできるものではない。子どもは残酷なまでに気分屋な生き物だ。ムツゴロウさん級の接し方であやしても、不機嫌なときはそっぽをむくだろう。

子の「傾向と対策」は、「学習時間(=一緒にいる時間)」が増えれば増えるほど、正解が増えていくと思う。そしてそれは、本能ではない。

「母親ならわが子をかわいいと感じる」というのも、とくに生まれた直後は、初めての育児への不安や夜中の授乳などの生活スタイルの激変で、正直なところかわいく感じる余裕がなかった。しかし、たくさんの時間を一緒に過ごすことによって、「うちの子かわいいポイント」が集まっていく。

今では親バカだなと思うくらい、わが子がかわいい。
写真館で撮影した時、「カメラマンに絶賛され、モデルとしてスカウトされ、有名子役への道を歩むのでは?」とドキドキしながら見守ったほど。

けれども、カメラマンからは機嫌のよいタイミングにたくさんの撮影をしようとする執念だけを感じ、実際にでき上がった写真をみると、そこにはどこにでもいるような普通の赤ちゃんがいた……。「うちの子かわいいポイント」の景品は、現物以上によく見える色眼鏡なのだ。


さて、母性本能とは何なのか。文献を紐解いてみると、母性本能はそもそも存在しないと指摘する。

まず、『母性という神話』(筑摩書房)を記したフランスの哲学者・バダンテールは、18世紀に生まれたパリの2万1千人の赤ちゃんを追跡調査し、じつに1万9千人の赤ちゃんが里子にだされたことをつきとめた。生まれたわが子を人に渡すという、母性とはほど遠い行為をみて、母性本能は存在しないのではと説いている。
17世紀にあらわれ、18世紀に一般化した子捨てともいえる母性愛の欠如が、19世紀、20世紀には献身と自己犠牲という母親の態度に変化していく。このように存在したり存在しなかったりする愛、プラスになったり、マイナスになったり、ゼロになったりする母性愛を、本能と呼べるだろうか?(略)本能ではなく、他の愛や憎しみと同じく、付け加わった愛(=プラス・ラブ)というべきかもしれない。


また、後天的に母性が作られるという研究結果もある。
「母性本能」が後天的に作られるということを証明するものに、クラウスとケネルの実験がある。出産後の母と子を二つのグループにわけ、母子の接触の仕方をかえてみる。生後一ヵ月、一年後に面接をしたところ、接触を多くさせたグループのほうが、乳児への関心を払い、子どもへのはたらきかけが多いことがわかった。この実験から「母性」というのは、女性の「本能」ではなく、出産後の母親が子供と接することによってい徐々に形成されるものということがわかった。
(『そこが知りたい性格の不思議』[雄鶏社/森川洋昭 著]より要約)


そしてじつは百科事典にも、母性が本能でないことが記載されている。
「母性」
母性は本能的に女性に備わっているものではなく、1つの文化的・社会的特性である。――
(ブリタニカ国際大百科事典)


……そうなのだ、母性本能は存在しない。存在しないものを存在すると思い込み、多くの場面で悩んでしまった。

産後、自分の中の母性信仰にさいなまれて追いつめられた自分に教えてあげたい。母とは後からゆっくり母になっていくのだよ。最初から母性があるわけではないのだよ、と。

そして今後も、「母性としてこうあるべき」だと責めなくていい。
母性は備わっているものではなく、子どもを育てることで身についていくものだから。正解のない母性に右往左往せず、自然体にまかせたい。

自分自身の母性しばりをほどいたら、楽になる。母の前に、ひとりの人間だもの。子を育てながら、母性も育つのだ。

福井 万里福井 万里
大学卒業後、大手システムインテグレータでSEとして10年間勤務も、東日本大震災を機に、本当にやりたいこと(書くこと)を生きがいにと決意し退職。2012年に結婚&長男を出産するも2013年に離婚、シングルマザーに。ライターとして活動を開始。