小児科の待合室にいた。

いつも息子は、着くなり絵本置き場に駆け寄って、適当に本を持ってくる。ときどき大人向けや小学生向けの難しい本を持ってきては「よんで?」と無邪気に言うが、途中で「これ、やっぱり、むじゅかちいね」と別の本を取りに行く。

この日も大人向けの本を数冊読まされたのち、息子の持ってきた『かちかちやま』を私は読み始めた。

「あれ、こんな話なんだっけ?」
冒頭でおばあさんがたぬきに殺されてしまう。
『かちかちやま』についてはうろ覚えだったので、のっけからショッキングだった。


「ねえ、ころされるってなに?」息子が尋ねる。
「殺されるっていうのは、誰かが、叩いたりして、叩かれた人が死んじゃうことだよ」
「なんで、おばあさんは、しんじゃったの?」

かれこれ1年ほど、この「なんで?」と付き合っている。
名称など答えがあるものに対して「これなに?」と聞かれたら、どのくらいラクだろうと毎回思うけど、好奇心旺盛な3歳児の、概念的な「なんで?」にとんち比べの気分で立ち向かう……というと聞こえはいいが、目の前の問題を順番にやっつけるだけだ。

「なんでだろうねえ、このたぬきが、悪いたぬきだったからかなあ」
「なんで、このたぬきは、わるいたぬきだったの?」
「うーん、なんでだろうねえ……」

即答できず惨敗である。
とりあえず話を先に進めよう。ウサギとたぬきの戦いは、ウサギの勝利で幕が閉じる。

「ねえ、なんで、たぬきは、しんじゃったの?」
「泥でできた船だから、沈んじゃったんだね」
「なんで、どろの、おふねは、しずんじゃうの?」
「お砂場で、泥遊びして、お水かけたら、崩れちゃうよね? それと一緒だよ」
「じゃあ、『しぬ』ってなに?」

……私は言葉に詰まった。

■子ども語に翻訳する、ということ


子どもが言葉をしゃべるようになると、これまでの生活のように、“オトナ語”で会話するわけにはいかなくなってくる。難しい言葉を平たくしようと思ったとき、己のボキャブラリーがひどく少ないことに気づく。

社会に出てからビジネス用語をまったく知らなくて恥ずかしい思いをしたことは二度三度じゃすまないのだが、今度はその逆に苦しんでいるのだ。

その昔、犬の言葉を翻訳するおもちゃが売られていたが、あれの子ども版があったらぜひとも購入したい勢いだ。誰か「子ども語電子辞書」のアプリを出したらいいのに。

自分が子どもにイライラすることのひとつに、この“片言の人同士が会話している状態”のような「言語のすれ違い」と「必要以上にゆっくりしゃべられること」があると思うのだが、それを差し置いても、この「死ぬ」をわかりやすく伝えることは難儀である。

極論はこうだ。
――だって、死んだことないし。

「ねえ、『しぬ』って、なあに? いたいの? ないちゃう?」
息子は自分の知ってる限りのつらそうな単語をあげて尋ねた。
「痛い人もいるだろうし、苦しい人もいるのかなあ」
「くるしい、ってなに?」

そうか、「苦しい」が通じなかったか……。

■身近な人が、死ぬということ


息子が生まれてから、家族とのお別れを3回経験している。法事を含めると、ブラックフォーマルを着て出席する行事の回数はもっと多い。

息子は「おとうちゃんのおばあちゃんは、しんじゃったんだよね!」と事実関係は把握しているようだが、「死ぬ」という単語を覚えても使い道を理解しておらず、会話の途中でとんでもない大暴投(その人にそれ言っちゃダメ!の典型的パターン)も発生しており、場に居合わせたものたちをあたふたさせている。


ある日自宅で、私がちょっと台所に入った隙に、紐通しの紐を子どもが首に巻きつけて遊んでいることに気づいた。

動揺した私は子どもの手から紐を離させ、大声で怒鳴りつけてしまったのだが、当の本人は何がいけないのかわからず、きょとんとしている。

「何やってんの! 死んじゃったらどうするの!」

今にして思えば、子どもを大声で激しく怒鳴るときは、たいていこちらが動揺しているときだなあと思う。ちょっと落ち着けば別のうまいやり方もあったろうにと毎回落ち込むのだ。

「なんで、ひもで、しんじゃうの?」
「首絞めたら息ができなくなって死んじゃうからやめなさいって言ってるの!」
「なんで、いきができないと、しんじゃうの?」

どう説明したら通じるのか、もどかしくなってしまって
「危ないんだからもうやめなさい! わかった!?」と、つい答えを急かしてしまった。

その後も数回この類のことは起き、そのたびに半狂乱になった私が泣きながら怒鳴るということが繰り返されているのだが、「なぜいけないのか?」の問いに、「大事なあなたがいなくなったらとてもつらく悲しい」と答えると、「だいじょうぶ、ぼくは、すーぱーまんだから」と自信満々で返答されるので、ずっと会話がすれ違ったまま、むなしく繰り返されるだけなのだ。


以前、ある芸人さんが「子どもに危険をわからせようと、教習所で見るような悲惨な事故のビデオを探した」という話を聞いたことがあった。

たしかにビジュアルでポンと示せるなら、それは手っ取り早い。しかし、大人でもトラウマになりかねないそれを3歳児に見せるのはちょっと早い気もして、うまいこと説明するすべはないかなと思っていたところ、店頭で『かないくん』という絵本を目にした。



■同級生の死を思う


『かないくん』は、糸井重里さん率いる「ほぼ日(ほぼ日刊イトイ新聞)」発信の絵本で、詩人・谷川俊太郎氏が一晩で書いた物語に、『ピンポン』などでおなじみの漫画家・松本大洋氏が2年かけて絵をつけたという。

インタビューなどではその過程が語られており、サイドストーリーも考えながら読むと深いものがある。なにより『生きる』という作品を世に出している谷川俊太郎氏に、『死』をテーマの作品を発注した、そのことに大変興味を持ったのだ。

同級生の「かないくん」が死んでしまった。
そのことを思い出して絵本を描いているおじいちゃんと、孫。
装丁を担当した祖父江慎さんらが試行錯誤して作り出した独特の白い色。


――読み進めるうちに、私が思い出していたのは、二十数年前の春の出来事だった。

制服を着た私は、大学病院の裏手に立っていた。
病院の通用口からは、彼女が運び出されて、車に積み込まれた。

みんな泣いている。
私は、どんな顔してここにいていいのかがよくわからなかった。ただ、重苦しいもやもやしたものに押しつぶされそうになって、苦しかった。

隣のクラスだった彼女が入院したのは中2のときだったと思う。

――大きな病気だ。手術をするらしい。

人づてにそんな話を聞いた。

2クラス合同で体育をやっていたので、いつも体育の授業は一緒だった。
すごく仲がいいというわけでもなかったけど、ああでもないこうでもないと、部活の話や男の子の話などをした。
整った、かわいらしい顔立ちの女の子だった。

ある時期、彼女はからかわれる対象になっていた。
原因はほんの些細なことだった。ジャージの丈がどうとか、そんなようなこと。
私はかばってあげられなかった。

友だちとうまくいっていない時期で、大きな力のほうに安易に流れて、少し安心していた。

それと、病気とは、関係ない。
関係ないとは思いながら、しばらく私は自分を責めていた。

みんなで千羽鶴を折った。
千羽鶴は、折ったら助かるものだと思っていたから、たくさん、たくさん折った。

ある日の放課後のことだった。
下駄箱のところで私は彼女の死を知らされた。

校庭は明るすぎて、逆光で私はシルエットのようになっていた。
どうしてだか、それを俯瞰で見ている光景が今でも目に焼きついている。
空が、ただ青かった。


「あの子、違うクラスなのに何来てんの?」と言われないだろうか。
幼馴染やクラスメートらが病院に制服姿でぞろぞろ集まっていた。
誰も、一言も発しないまま時が過ぎた。

最期の様子を私たちは聞かされた。
寝ようとするとその様子を想像して、眠れない日が続いた。


彼女がいないまま私たちは進級して、
彼女を残して、私たちは卒業した。

■死ぬって、どういうこと? ──物語を通して考えてみる


『かないくん』の中では“死ぬとは何か”について語られているが、その質問の本当の答えというのはきっとふわっとしていて、それは、自分が死に至ったときにはじめて気づくのではないだろうか。

ただ、ここにいなくなる。……だけじゃない、何か。

そこで終わりなのか、続きがあるのか。
もしかしたら“死んだらおどろいた!”みたいなことがあるかもしれないし、そこから先のことは正直、今ここに生きている誰にもわからない。

昆虫や植物に例えて「死」というものを伝えてみたこともあったけど、物語を通して感情移入とともに考えてみることが、もうできる年齢なのではないか。

絵本の体裁ではあるが、“絵本を卒業した世代向け絵本”ともとれる『かないくん』。子どもでも読めるように文章にはルビが振られているが、幼児への読み聞かせとしては難しい部類かもしれない。

ならば、同じく祖父江慎さんがブックデザインを担当している「うさこちゃん」シリーズから、『うさこちゃんのだいすきなおばあちゃん』。これはどうだろう。

悲しすぎて、大の大人が読むたびに泣いてしまう作品なのであるが、こちらもあわせて子どもに読んでみたいと思う。「ちょっと、なに、ないちゃってんの?」と子どもに笑いながら指さされるかもしれないが。

【参考リンク】
かないくん展
http://www.1101.com/kanaikunten/
(2014/6/2まで渋谷・パルコミュージアムにて開催中)

ワシノ ミカワシノ ミカ
1976年東京生まれ、都立北園高校出身。19歳の時にインディーズブランドを立ち上げ、以降フリーのデザイナーに。並行してWEBデザイナーとしてテレビ局等に勤務、2010年に長男を出産後は電子書籍サイトのデザイン業務を経て現在はWEBディレクター職。