なんだか、世の中の習い事が、多すぎる気がする。
……というのは、今に始まったことじゃなくて、私が子どもの頃から評されていたことだ。
当時は「教育ママ」という表現が一般的で、習い事をたくさんやらせる親は、詰め込み型でギチギチで勉強第一主義で厳しくて……という典型的なイメージがあった。
ところが、母になってみたら、意外にもそういう「教育ママ」には出会わないもので、習い事をめぐる状況も、必ずしも、そんな詰め込み気質からくるものではないことに気付いた。

幼稚園くらいで習い事の第一波は押し寄せる。多い人は、本当に多い。
しかし、身近に出会う「習い事の多い人」は、イメージに反して実に気負いがないのだ。「これを身につけさせたい!」という気持ちがあふれていて重い、というより、もっと気軽な雰囲気が漂っている。
どこかちょっぴり「時間つぶし」的側面もありそうだ。
「子育て専業の母」の場合、幼稚園に入ってようやく、初の母子分離を経験する。習い事は、「もう帰ってきてしまう」子どもと過ごす長い午後、再び離れられるオアシス的位置付けになるのも、自然な感覚だろう。
公園に行くとか、友だちと遊ぶとか、それらと同じごく普通のレベルに習い事もある。「詰め込もうと必死」なのではなく、そういう「ゆるさ」があるのがひとつの特徴な気がするのだ。
一方、「子育てと仕事兼業の母」には、「習い事もさせてあげられない」という感覚が存在することも知った。早いうちから母子分離を経験するので「離れたい感」は薄く、むしろ「子どもにかけられる時間が少ない」という思いが強くなりがちだ。
平日が仕事だと、習い事はどうしても週末に集中する。一日に2つかけもちする場合もある。
専業母的視点だと、週末まで子どもの習い事に付き合うなんて熱心!とか、一日に2つなんてあり得ない!と、詰め込み型に見えるかもしれない。
でも、これは単に兼業母の時間的な事情だ。平日は仕事だから休みくらいは子どものために……と、限られた時間で効率よく予定を組もうとするから、週末に習い事をまとめて入れるだけなのだろう。
専業母スタイル、兼業母スタイル、互いの様子が見えるとつい、「みんな習い事してるみたい」「休みの日にやるくらい熱心でないとダメ?」……なんてことを思ってしまうかもしれない。
でも、こんな風にそれぞれ、意外とゆるくて普通の事情だったりするのだから、そこは気にする必要はないと思うのだ。
むしろ、気にした方がいいのは、子どもにとって、今その習い事は妥当か? ということの方だろう。
子どもが情報や緊張を処理できる分量は個人差が大きい。処理のキャパシティをバケツに例えるなら、その大きさや強度は人それぞれだ。
うちの息子のバケツは小さい。普段の最低限必要な生活だけで、もうすでにあふれ気味だ。習い事はひとつ、運動面の自信をつけるためにゆるく続けている程度。それくらいがちょうどいい。
一方、バケツが大きくてびっくりするほどたくさん入る子、ちょっと無理して入れればバケツがひと回り大きくなり強度も上がる子だっているだろう。年齢によっても違う。だから一概に「〇個以上は習い事が多すぎ」とは言えない。
私は、そろそろこれも入るかなぁ?と試して、よく失敗する。他の子のことは参考にならないから、自分の子をじっくり観察するしかない。
バケツがいっぱいなことに気付かずいくら習い事を追加しても、こぼれ出るだけだろう。多すぎたらバケツが壊れるかもしれない。
平日が「最低限こなすこと」に追われ、週末が外出でうまった時は、なんだかもう「やることだらけ」だなぁ、とちょっと親の私がげんなりする。息子の側に自覚はないけれど、累積すれば警鐘ランプのように風邪をひく。
「何も無い時間」ていうのも大切だ。
積極的なインプットだけが続くのはバランスが悪い。習い事などでどんなにいい刺激を受けても、それが消化されて、深まるのは「何も無い時間」。想像力を働かせたり、何かを作りたくなったり、やりたいことが沸き出すのは、そういう気ままな時間なのじゃないかなぁ……。
技能を身につけるっていうのは、それなりに大変なことだ。
私はピアノだけはそれなりに弾けるようになったけれど、やっぱり毎日練習していた。身体で覚える側面があるから、練習しなければ弾けるようにはならない。楽器に限らずスポーツなども同じだろう。そして、大人になって離れてしまえば、離れた分だけ身体が一旦忘れる。
「教室に行った時だけやる」状態だった習い事は、楽しかったけれど、技能的にはたいして身につかなかった。結果的に、表面をなでてその世界を垣間見ただけ。
技能はそれほど身につかなくても……と割り切るなら、それもありだ。やる人の自由でいい。でも、ある程度まともな技能を身につけたいなら、毎日練習できる時間とエネルギーを確保しないと、習うだけもったいない。
先日、デザイナーの友人が言っていた。
「デザインといっしょ、どこまで引けるかだよ。」
デザインとか文章は、一見足して作っているようで、不要なものを見極めて、どこまで減らせるか、っていうのが大切だったりする。引き算。
多彩な経験をさせたいと、良さそうなものを足していく発想は実は簡単だ。親は○○が出来たら素敵だろうなぁ、という夢想もする。
でも、子どものバケツや持ち時間をよく見て、無理ない適性なラインまで減らす引き算の発想の方が、大切なのかもしれない。
その友人とは子育ての感覚も子どものバケツサイズも似ているところがある。
あぁ、それでいいんだよね、とストンと言葉が入った。
帰宅後、机の隅に未練がましく置いてあった「キッズ○○」の何枚かのチラシを捨てた。
うん、これはまだだ。今無理することはない! 私のイメージじゃなく、彼のペースで行こう。
……というのは、今に始まったことじゃなくて、私が子どもの頃から評されていたことだ。
当時は「教育ママ」という表現が一般的で、習い事をたくさんやらせる親は、詰め込み型でギチギチで勉強第一主義で厳しくて……という典型的なイメージがあった。
ところが、母になってみたら、意外にもそういう「教育ママ」には出会わないもので、習い事をめぐる状況も、必ずしも、そんな詰め込み気質からくるものではないことに気付いた。

■時間つぶし的? ――平日びっしり専業母スタイル
幼稚園くらいで習い事の第一波は押し寄せる。多い人は、本当に多い。
しかし、身近に出会う「習い事の多い人」は、イメージに反して実に気負いがないのだ。「これを身につけさせたい!」という気持ちがあふれていて重い、というより、もっと気軽な雰囲気が漂っている。
どこかちょっぴり「時間つぶし」的側面もありそうだ。
「子育て専業の母」の場合、幼稚園に入ってようやく、初の母子分離を経験する。習い事は、「もう帰ってきてしまう」子どもと過ごす長い午後、再び離れられるオアシス的位置付けになるのも、自然な感覚だろう。
公園に行くとか、友だちと遊ぶとか、それらと同じごく普通のレベルに習い事もある。「詰め込もうと必死」なのではなく、そういう「ゆるさ」があるのがひとつの特徴な気がするのだ。
■限られた時間を効率よく ――週末びっしり兼業母スタイル
一方、「子育てと仕事兼業の母」には、「習い事もさせてあげられない」という感覚が存在することも知った。早いうちから母子分離を経験するので「離れたい感」は薄く、むしろ「子どもにかけられる時間が少ない」という思いが強くなりがちだ。
平日が仕事だと、習い事はどうしても週末に集中する。一日に2つかけもちする場合もある。
専業母的視点だと、週末まで子どもの習い事に付き合うなんて熱心!とか、一日に2つなんてあり得ない!と、詰め込み型に見えるかもしれない。
でも、これは単に兼業母の時間的な事情だ。平日は仕事だから休みくらいは子どものために……と、限られた時間で効率よく予定を組もうとするから、週末に習い事をまとめて入れるだけなのだろう。
■事情の違いは気にしない
専業母スタイル、兼業母スタイル、互いの様子が見えるとつい、「みんな習い事してるみたい」「休みの日にやるくらい熱心でないとダメ?」……なんてことを思ってしまうかもしれない。
でも、こんな風にそれぞれ、意外とゆるくて普通の事情だったりするのだから、そこは気にする必要はないと思うのだ。
むしろ、気にした方がいいのは、子どもにとって、今その習い事は妥当か? ということの方だろう。
■子どものバケツの容量は? ――心の余白
子どもが情報や緊張を処理できる分量は個人差が大きい。処理のキャパシティをバケツに例えるなら、その大きさや強度は人それぞれだ。
うちの息子のバケツは小さい。普段の最低限必要な生活だけで、もうすでにあふれ気味だ。習い事はひとつ、運動面の自信をつけるためにゆるく続けている程度。それくらいがちょうどいい。
一方、バケツが大きくてびっくりするほどたくさん入る子、ちょっと無理して入れればバケツがひと回り大きくなり強度も上がる子だっているだろう。年齢によっても違う。だから一概に「〇個以上は習い事が多すぎ」とは言えない。
私は、そろそろこれも入るかなぁ?と試して、よく失敗する。他の子のことは参考にならないから、自分の子をじっくり観察するしかない。
バケツがいっぱいなことに気付かずいくら習い事を追加しても、こぼれ出るだけだろう。多すぎたらバケツが壊れるかもしれない。
■「何も無い時間」は十分にある? ――時間の余白
平日が「最低限こなすこと」に追われ、週末が外出でうまった時は、なんだかもう「やることだらけ」だなぁ、とちょっと親の私がげんなりする。息子の側に自覚はないけれど、累積すれば警鐘ランプのように風邪をひく。
「何も無い時間」ていうのも大切だ。
積極的なインプットだけが続くのはバランスが悪い。習い事などでどんなにいい刺激を受けても、それが消化されて、深まるのは「何も無い時間」。想像力を働かせたり、何かを作りたくなったり、やりたいことが沸き出すのは、そういう気ままな時間なのじゃないかなぁ……。
■技能系習い事の練習時間はある?
技能を身につけるっていうのは、それなりに大変なことだ。
私はピアノだけはそれなりに弾けるようになったけれど、やっぱり毎日練習していた。身体で覚える側面があるから、練習しなければ弾けるようにはならない。楽器に限らずスポーツなども同じだろう。そして、大人になって離れてしまえば、離れた分だけ身体が一旦忘れる。
「教室に行った時だけやる」状態だった習い事は、楽しかったけれど、技能的にはたいして身につかなかった。結果的に、表面をなでてその世界を垣間見ただけ。
技能はそれほど身につかなくても……と割り切るなら、それもありだ。やる人の自由でいい。でも、ある程度まともな技能を身につけたいなら、毎日練習できる時間とエネルギーを確保しないと、習うだけもったいない。
■「引き算」の発想
先日、デザイナーの友人が言っていた。
「デザインといっしょ、どこまで引けるかだよ。」
デザインとか文章は、一見足して作っているようで、不要なものを見極めて、どこまで減らせるか、っていうのが大切だったりする。引き算。
多彩な経験をさせたいと、良さそうなものを足していく発想は実は簡単だ。親は○○が出来たら素敵だろうなぁ、という夢想もする。
でも、子どものバケツや持ち時間をよく見て、無理ない適性なラインまで減らす引き算の発想の方が、大切なのかもしれない。
その友人とは子育ての感覚も子どものバケツサイズも似ているところがある。
あぁ、それでいいんだよね、とストンと言葉が入った。
帰宅後、机の隅に未練がましく置いてあった「キッズ○○」の何枚かのチラシを捨てた。
うん、これはまだだ。今無理することはない! 私のイメージじゃなく、彼のペースで行こう。
![]() | 狩野さやか ウェブデザイナー、イラストレーター。企業や個人のサイト制作を幅広く手がける。子育てがきっかけで、子どもの発達や技能の獲得について強い興味を持ち、活動の場を広げつつある。2006年生まれの息子と夫の3人家族で東京に暮らす。リトミック研究センター認定指導者。 |
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