「○○くんのママ」と呼ばれるようになった。母になってから。
出産した病院で、「うちの赤ちゃん」のベッドの名札には、黒マジックで私の名前が表示され、書類の氏名欄には「カノウサヤカのコ」と記された。そんなふうに一番初め、赤ちゃんはとりあえず私に属する存在として記述される。しばらくして名前が決まり役所に出生が登録され、私は「○○くんのママ」になった。

育児が始まると、子どものことで時間が埋め尽くされ、外出も子どものための用事ばかりになった。病院で呼ばれるのは息子のフルネームで、説明を受ける私は「お母さん」と語りかけられる。乳幼児の遊び場で名簿に書くのは息子の名前で、彼は名前で呼ばれ、私は「ママ」と呼ばれるのだ。
そうしてすっかり、自分が自分の名字ですら呼ばれなくなる。過去に、こんなに大きなくくりの名詞で呼称されたことはあったかなぁ、あまりなかったかもなぁ……。
出産した病院で、「うちの赤ちゃん」のベッドの名札には、黒マジックで私の名前が表示され、書類の氏名欄には「カノウサヤカのコ」と記された。そんなふうに一番初め、赤ちゃんはとりあえず私に属する存在として記述される。しばらくして名前が決まり役所に出生が登録され、私は「○○くんのママ」になった。

■一般名詞でのみ呼ばれるということ
育児が始まると、子どものことで時間が埋め尽くされ、外出も子どものための用事ばかりになった。病院で呼ばれるのは息子のフルネームで、説明を受ける私は「お母さん」と語りかけられる。乳幼児の遊び場で名簿に書くのは息子の名前で、彼は名前で呼ばれ、私は「ママ」と呼ばれるのだ。
そうしてすっかり、自分が自分の名字ですら呼ばれなくなる。過去に、こんなに大きなくくりの名詞で呼称されたことはあったかなぁ、あまりなかったかもなぁ……。
そうか、私は「主」の存在ではなく子どもに「従属する存在」になったんだ。物理的にも半径1メートル以上ほぼ離れることのないこの赤ちゃんとセットなんだ。
私は一体どこへ行った? じわりじわりと存在が薄くなる。
大人が集ってうちで盛り上がっている時、授乳で30分中座している間に隣から楽しそうな声が聞こえてくる。あぁ、今皆が中座していると認識しているのは「赤ちゃん」であり、「私」ではないだろうなぁ……、と、ぼんやり理屈っぽく思ったりするのだ。
人の目は私を通過して赤ちゃんを見ている。
こういう感覚を、多くの女性はもうすでに一度味わっている。結婚して姓が変わった時だ。苗字が変わるっていうのは、ある意味アイデンティティの危機くらい、大事件だ。
名前はそれまでの自分に絶えず貼りついていたラベルのようなもの。その文字のグラフィカルな形状、色のイメージ、音の印象、そういうものを一度完全にはがして、まったく違う印象のものに貼り直さなければいけない。「出席番号」だって変わる!
もう、何年経ったって、どこか自分のラベルである気がしないものだ。世を忍ぶ仮の姿のような、逆に、それまでの自分と切り離して生き直すことを許されたような……。そして、「夫」と「セット化」される。多くの確率で「従属する存在」として。
そこへさらに追いうちをかけて、「ママ」という一般名詞に格下げなのだ。
幼稚園くらいになると、「◯◯くんママ」「○○ちゃんママ」という呼称が市民権を得てくる。本当はわざわざそう呼ばなくても、苗字で◯◯さん、で構わない。
「ママ友」という言葉もあるけれどそういう何か特殊な友人カテゴリーがあるわけではない。単に親しさに応じて「同じ園の人」「知人」「友人」が存在するだけだ。
でも、そういうあふれる「ママくくり」の中で、さらに「私」は希薄になる。
早い段階で、外での仕事を再開した人は、きっとこの感覚が短い期間で済む。子どもと物理的に離れ、「◯◯さん」と呼ばれる時間を得るだけで、「私」を実感するには十分だ。
それがなければもう、乳幼児育児中の母なんて、完全に万年サブキャラ状態である。
うちは最初から呼称を「おかあさん」にしていたので、息子は私を「ママ」と呼んだことがない。でも、外では「ほら○○くん、ママが来たよ~」など、「ママ」で語りかけられることが多く、子どものまわりも「ママくくり」でいっぱいだ。
だから、「ぼくが『おかあさん』と呼んでいる人は、じつは『ママ』なのかもしれない」と感じるらしく、確かめるように「ママ」と呼んでみたり、唐突に「ぼくのママは……」と表現してみたり、なんてこともあった。
もはや私は「ママ」という生物カテゴリーに属しているのか……と、思いそうになる。
そんなんこんなで、すっかり「私」は消えてしまったかのように思うのだけれど、感傷的に自己喪失感に浸る前に、そろそろ気付くのだ。
道で歩いて挨拶をする人が増え、レジのお姉さんは何年にもわたって子どもの成長に気付いてくれる。電車やバスでささやかな会話を交わすことが増え、行ったことがなかった「近くて遠い場所」をたくさん歩いた。
顔見知り・知人・友人がなんとなく増え、ふたり暮らしの時にはなかった「ゆるやかなつながり」が、自分の身の回りにあふれ始めている。子どもをインターフェースに、私はそれまで知らなかった社会とどうやらつながっているらしい。
サブキャラ化して、一般名詞でくくられて、自分がどんどん薄まっていくような気がしていたけれど、それは何かを喪失したのではなく、ただの変化の一面であり、むしろ、社会とのつながりは意外にも広がっていた。
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たまに立ち寄るお肉屋さん。いつもの調子でコロッケをお願いしたら、おばあちゃん、案の定、微妙にピンときていない。「今日は子ども一緒じゃないんですけど……」自ら注釈を加え、「あぁあ」とうなずいてもらった。まさにサブキャラ、単独時のこの認識率の低さよ。
揚げるのを待つ間の中身のない会話は心地よく、「ボクによろしくね」と渡されたコロッケはいつも通り熱々で、とてつもなくいい匂いがする。
サブキャラで別にいっか、と、自転車を走らせながら思った。
私は一体どこへ行った? じわりじわりと存在が薄くなる。
大人が集ってうちで盛り上がっている時、授乳で30分中座している間に隣から楽しそうな声が聞こえてくる。あぁ、今皆が中座していると認識しているのは「赤ちゃん」であり、「私」ではないだろうなぁ……、と、ぼんやり理屈っぽく思ったりするのだ。
人の目は私を通過して赤ちゃんを見ている。
■サブキャラ化は2度目
こういう感覚を、多くの女性はもうすでに一度味わっている。結婚して姓が変わった時だ。苗字が変わるっていうのは、ある意味アイデンティティの危機くらい、大事件だ。
名前はそれまでの自分に絶えず貼りついていたラベルのようなもの。その文字のグラフィカルな形状、色のイメージ、音の印象、そういうものを一度完全にはがして、まったく違う印象のものに貼り直さなければいけない。「出席番号」だって変わる!
もう、何年経ったって、どこか自分のラベルである気がしないものだ。世を忍ぶ仮の姿のような、逆に、それまでの自分と切り離して生き直すことを許されたような……。そして、「夫」と「セット化」される。多くの確率で「従属する存在」として。
そこへさらに追いうちをかけて、「ママ」という一般名詞に格下げなのだ。
■「ママくくり」の匿名性
幼稚園くらいになると、「◯◯くんママ」「○○ちゃんママ」という呼称が市民権を得てくる。本当はわざわざそう呼ばなくても、苗字で◯◯さん、で構わない。
「ママ友」という言葉もあるけれどそういう何か特殊な友人カテゴリーがあるわけではない。単に親しさに応じて「同じ園の人」「知人」「友人」が存在するだけだ。
でも、そういうあふれる「ママくくり」の中で、さらに「私」は希薄になる。
早い段階で、外での仕事を再開した人は、きっとこの感覚が短い期間で済む。子どもと物理的に離れ、「◯◯さん」と呼ばれる時間を得るだけで、「私」を実感するには十分だ。
それがなければもう、乳幼児育児中の母なんて、完全に万年サブキャラ状態である。
■もはや生物カテゴリー?
うちは最初から呼称を「おかあさん」にしていたので、息子は私を「ママ」と呼んだことがない。でも、外では「ほら○○くん、ママが来たよ~」など、「ママ」で語りかけられることが多く、子どものまわりも「ママくくり」でいっぱいだ。
だから、「ぼくが『おかあさん』と呼んでいる人は、じつは『ママ』なのかもしれない」と感じるらしく、確かめるように「ママ」と呼んでみたり、唐突に「ぼくのママは……」と表現してみたり、なんてこともあった。
もはや私は「ママ」という生物カテゴリーに属しているのか……と、思いそうになる。
■サブキャラ化は「喪失」ではない
そんなんこんなで、すっかり「私」は消えてしまったかのように思うのだけれど、感傷的に自己喪失感に浸る前に、そろそろ気付くのだ。
道で歩いて挨拶をする人が増え、レジのお姉さんは何年にもわたって子どもの成長に気付いてくれる。電車やバスでささやかな会話を交わすことが増え、行ったことがなかった「近くて遠い場所」をたくさん歩いた。
顔見知り・知人・友人がなんとなく増え、ふたり暮らしの時にはなかった「ゆるやかなつながり」が、自分の身の回りにあふれ始めている。子どもをインターフェースに、私はそれまで知らなかった社会とどうやらつながっているらしい。
サブキャラ化して、一般名詞でくくられて、自分がどんどん薄まっていくような気がしていたけれど、それは何かを喪失したのではなく、ただの変化の一面であり、むしろ、社会とのつながりは意外にも広がっていた。
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たまに立ち寄るお肉屋さん。いつもの調子でコロッケをお願いしたら、おばあちゃん、案の定、微妙にピンときていない。「今日は子ども一緒じゃないんですけど……」自ら注釈を加え、「あぁあ」とうなずいてもらった。まさにサブキャラ、単独時のこの認識率の低さよ。
揚げるのを待つ間の中身のない会話は心地よく、「ボクによろしくね」と渡されたコロッケはいつも通り熱々で、とてつもなくいい匂いがする。
サブキャラで別にいっか、と、自転車を走らせながら思った。
![]() | 狩野さやか ウェブデザイナー、イラストレーター。企業や個人のサイト制作を幅広く手がける。子育てがきっかけで、子どもの発達や技能の獲得について強い興味を持ち、活動の場を広げつつある。2006年生まれの息子と夫の3人家族で東京に暮らす。リトミック研究センター認定指導者。 |
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