そうか、もう20年か。

「阪神・淡路大震災から20年だから、今はその特集のための取材に追われている」と、地元、神戸で報道の仕事に就く友人から聞かされたのは、昨年の夏のことだった。

今年の1月17日には、震災後の神戸を舞台にした、『神戸在住』(http://www.sun-tv.co.jp/kobe-zaiju)という映画がその日から公開される。

テレビ各局では特別番組が放送される予定で、各地で追悼式典やメモリアルイベントが開催されるとのことだ。


1995年のこの日、当時私は15歳、高校受験を控えていた。

第1志望校には相当頑張りが必要だと言われていたこともありナーバスになっていて、自室では夜よく眠れないことが多く、母の寝室に自分の布団を持っていって眠る日々を過ごしていた。

その日も母のとなりに布団を敷き、ぐっすり眠っている時間だった。

午前5時46分。
ドンっと鈍い音が響き背中を突いたかと思うと、何かが体中を揺さぶるような感覚に変わった。

洋服ダンスの引き手がガタガタ音を立てて揺れているのを、呆然と眺めていた。
実家のマンションは、急カーブの先に立てられていて、その昔スピードを出しすぎた車が突っ込んできたことがあり、また同じことが起きたのかと思った。

数十秒後、揺れがおさまったとき、母が私をぎゅっと抱きしめた。

私もとっさに母に抱きつき、やっと今の揺れが地震だと気付いた。

すぐリビングに移動しテレビをつけると、震源地は淡路島、震度7の地震が発生したとキャスターは報じていた。

その後、割れた地盤、倒壊した建物、火災で真っ赤になる街が映し出された。すべてよく知っている神戸の街だった。

我が家の被害はというと、お皿が数枚割れた程度で、家具や家そのものにも影響はなく、被災というには軽症すぎるほどであった。

ただ、ライフラインが止まってしまい、学校に通える状況ではないので、当分家で自習ということになったが、落ち着いて勉強できるわけもなく、数日はぼんやりしていたように思う。

また、当時我が家は経済的に不安定で、震災により不安が後押しされた母が泣いている姿を見たことも、自分にとっては衝撃だった。

「お母さんも辛いんだな」と思うと、自分も恐いんだとは感情を吐露することができず、不安をぐっと押し込めて、勉強に注力しようと試みた。

そこからがむしゃらに勉強した甲斐あって、志望校に合格し、春を迎えることができた。


高校に入学すると新しい生活に順応するのに忙しく、震災のことを思い出すことは減っていった。同級生たちももちろん震災を経験しているから、同じ気持ちを共有していると思っていたのだ。しかし、自分の中に違和感が残っているのに気付いたのは、大学に入学した頃だっただろうか。

初対面の人に「神戸出身です」と伝えると、返って来る反応は100%、「地震のときは大丈夫だったの?」であった。

相手にしてみたら話の取っ掛かりなのだろうが、少なくとも立ち話で軽く話したい内容ではなく、いつも顔をひきつらせていていた。

もし私の答えが「家が全壊した」だったとしたらこの人はどんな顔するだろう。その可能性がないわけではないのに、どうしてそんなに軽々しくきけるのだろう。私の心はどんどん頑なになっていった。

しかし、私の家族はいつの間にか笑って話せるレベルにまで達していて、父親にいたっては、「最初の揺れがおさまったあと、二度寝した」と、まるで「すべらない話」のように披露していた。

家族はこうやって震災を「過去の出来事」として受け入れているのに、いつまでも傷ついている自分はおかしいのかな、と悩んだこともあった。


夫は大阪出身で、この時期になると当時の話をしたりするが、やはり捉え方に大きな温度差があった。

神戸と大阪では被害に大きな差があったので仕方ないのかとも思ったけれど、このままひとり取り残されていくのかな、という不安が拭えなかった。


自分に巣食った感情の正体に気付いたのは、東日本大震災のときであった。
15歳当時の感覚がフラッシュバックし、会社のデスクの下でうずくまって泣いていた私を周囲は気遣ってくれたけど、今思うと腫れ物に触るような感覚であっただろう。

いい大人が号泣してるなんて、と思われるだろうかという恥ずかしさもあった。
憔悴しそうになりながら4時間かけて徒歩で帰宅した私に、友人のひとりがSNSで話しかけてくれた。

「地震が起きてまっさきにあなたのことを思い出した。PTSDで辛いだろうけど、お互い無事でよかった」

ああ、これってPTSDだったのか。
自分が10数年もPTSDを抱え込んでいたことにようやく気付いた。
そして、言い方はおかしいかも知れないけれど、少しだけほっとした。
正体不明の感情に名前がつけられたことに安堵を感じたのだ。


昨年末、『ショート・ターム』という映画を観た。(http://shortterm12.jp/)
親からの虐待やネグレクトを受けたティーンエイジャーをケアする施設で働く主人公と、施設で暮らす子どもたちの触れ合いを描いたドラマだ。

施設の職員である主人公もまた、かつては親からの虐待を受け、その心の傷に今も苦しみ、そしてお腹に新しい命を宿して母になる準備をする。

親になるというのはとても責任が重く、人生の中でも重要な意味を持つことだ。
だからといって急に聖人になるわけでも、何もかもを受け入れられるほど寛大になるわけでもない。

自分が受けた傷をチャラにしてくれるほど、子どもの存在は万能ではない。
であれば、自分自身の傷と共生しながら生きていくしか術はないのだろう。


母の涙を見たときはショックだった。
それまでは自分のすべてを委ねられる絶対な存在だったのに、親も人間なんだなと気付いた出来事だった。

だけど、これまでの自分自身を振り返ると、完璧なわけもなく、むしろたくさんの傷を克服できないまま親になっている。


あれから20年と言うけれど、それは外から見たひとつの区切りであって、当事者にとってはその日から何かが劇的に変わる、ということもない。

私自身はこれからも心の傷をどう癒せばいいのか分からないまま、淡々と日常を過ごすのだろう。


東日本大震災からは4年弱、都内でもたびたび地震が発生する。
そのたびに、真っ先に娘を守ろうと体が自然に動く。
幸運といってよいのか、大抵それは娘が寝ているときで、揺れで目を覚ましたこともない。
娘はまだ2歳だから、地震という存在も言葉も知らない。

万が一のことがあったら、自分たちが犠牲になっても娘だけは守ろう、と夫とも常々話しているが、この子が地震の恐ろしさを知らないで済めばいいのにな、とも願っている。

それでも悲しい事態が起こったら、あの日、母がしてくれたように、娘を抱きしめるしかないのかもしれない。

そのためには自分は犠牲になってもいいなんて言ってちゃダメだ、やっぱり私も生きなきゃいけないな、と気付かされた。

真貝 友香(しんがい ゆか)真貝 友香(しんがい ゆか)
ソフトウェア開発職、携帯向け音楽配信事業にて社内SEを経験した後、マーケティング業務に従事。高校生からOLまで女性をターゲットにしたリサーチをメインに調査・分析業務を行う。現在は夫・2012年12月生まれの娘と都内在住。