新学期早々、息子の持ち物リストをチェックをする。明日はぞうきん2枚か……いや、春休みからわかっていたことではあるのだ。ぞうきん用のボロボロのタオルは既に選定済み。
ちょっとミシンをかけるその時間がそれまでなかったか、といえば、本気で完璧にゼロだったはずは無いのだけれど、常にそれより優先したいことがあって、「気づかぬふり」で放置していた。
あぁ、もう今日も仕事詰まってるし、もう100円ショップでぞうきんを買うかなぁ、今はぞうきん売ってる時代だよなぁ……。
でもなぁ、いいのかなぁ。どうもぞうきん「ごとき」に、100円だろうと払うのには抵抗がある。そもそも、ぞうきんは古くなったタオルの聖地であって、ピカピカのタオルがぞうきんになるのはどうなんだ?

自分がそれまで「買う習慣」がなかったものを買うという行為は、意外とハードルが高い。
例えば、ポケットティッシュ。あれは街頭でもらって自動的に家にたまっているもので、買うものという感覚が薄い。とはいえ今は、子どものポケットに入る小さいサイズが欲しくなり、ようやくそれだけは買うのに抵抗がなくなった。
それからペットボトルの水とお茶。私が小さい頃、水は水道以外の選択肢もなく、お茶は家でいれるものだったので、初めてペットボトルで水やお茶が売られるようになった頃は、「これ買うの!?」と違和感があった。今もつい、買うなら「味のついたもの」を選びたくなる。
「買わないですむもの」と頭の片隅にこびりついているものを買うのは、ちょっと贅沢で手抜きなイメージを伴う。ポケットティッシュを買うなんて「なんかもったいない?」と感じたり、ペットボトルのお茶を買うなら水筒持って来ればよかったなぁ、と思ったり。
ぞうきんも、どうやら同じで、私の記憶の中で、「古くなったタオルを縫って作るもの」として定着している。あれは買うものじゃなかった。
今の私には、小さなポケットティッシュを「買う」ことは、「子どもが持ち歩きやすい」という価値を持っている。ペットボトルの水やお茶には、安全も便利さがある。
ぞうきんだって、本当は、同じこと。
時代は変わった。ミシンは、電気炊飯器ほど「どの家にもあるもの」じゃない。100円ショップにはモノがあふれて、たいていのものが作るより早く簡単に手に入る。仕事をしていたら時間だってない。そして裁縫はもはや、「料理」や「洗濯」のように生活に必要な家事ではなく、趣味や特技のジャンルになりつつある。
当時、実際には母がミシンをかけるという人的・時間的コストによって生み出されたぞうきんは、今の時代と生活環境なら、それを100円玉に置き換えるだけの価値が十分あるはずなのだ。
ところがポケットティッシュと違ってぞうきんのちょっと面倒なところは、どこか自分の母親の記憶と結びついて、買うことが「親としての手抜き」のように思えるというおまけがついてくるところ。
自分が自分に対して思うだけで、友人がぞうきんを買っていても、本気でなんとも思わない。ましてやぞうきんを縫ったかどうかで「愛情に違いが……」なんてこれっぽっちも思わない。
なのに、何かがひっかかる。そういえば、新入園&入学時の「布ものグッズ」もそうだった。買ったってオーダーしたっていいのに、結局なんだか手放せなくて作ってしまった。自分の母がやっていたようなことをやりたいとか、「手を抜いていない」と「自分が」思いたいとか……そういう隠しきれない気持ちのカケラがどこかにある。
今の私と母では、時代も環境もかなり違う。だから家事全般、とっくに割り切って手を抜いて、自分の母とは比べようもない適当さを貫いているのに、どこか呪縛めいた「親としての自意識」とか「母イメージ」みたいなものが、まだくすぶっているらしい。
いい加減、そういう「親/母イメージ」って捨てないと格好悪いなぁ、捨てられないのって弱さかなぁ、と思っていた。これ、ぞうきんを買ったら私はなにかひとつふっきれるんじゃないの?……なのに、なんだか、やっぱり買いそびれた。
結局、敵は自分の中にあり。
新入園&入学の布ものグッズを作ったときの満足感というのは、完成時がマックスだった。実のところ毎日の登園登校が始まれば、やがて手製の名前シールやアイロンプリントは汚くはがれ始め、黒マジックで不恰好に名前を書くことにためらいがなくなるし、手間のかかった手提げは学校に置き去りにされ、どこかでもらったイマイチなエコバッグや紙袋も平気で持たせるようになる。
そうやって自分のこだわりは、それどころではない多忙な日常で薄まり、がしゃがしゃと壊れていってくれる。1回目より2回目はちゃんと手を抜けるようになっている。
だから、それが弱さだろうとなんだろうと、ノスタルジーやら自意識やらが勝り、作る気力と体力が残っているなら、まぁ、しばらく、ぞうきんくらい縫い続けてもいいのかもしれないな、と思うことにした。
結局、うっかり子どもと寝てしまって明け方にミシンをかけた。2枚どうにか縫ってギリギリセーフ!と自己満足にひたっていたら、子どもが3人いる友人たちの顔がふわりと浮かんできた。
そうか、それって一度にぞうきん6枚なのか!!!
それは迷わず100円ショップに走った方がいいと思います……。
ちょっとミシンをかけるその時間がそれまでなかったか、といえば、本気で完璧にゼロだったはずは無いのだけれど、常にそれより優先したいことがあって、「気づかぬふり」で放置していた。
あぁ、もう今日も仕事詰まってるし、もう100円ショップでぞうきんを買うかなぁ、今はぞうきん売ってる時代だよなぁ……。
でもなぁ、いいのかなぁ。どうもぞうきん「ごとき」に、100円だろうと払うのには抵抗がある。そもそも、ぞうきんは古くなったタオルの聖地であって、ピカピカのタオルがぞうきんになるのはどうなんだ?

■買わないで済むものを「買う」のハードルの高さ
自分がそれまで「買う習慣」がなかったものを買うという行為は、意外とハードルが高い。
例えば、ポケットティッシュ。あれは街頭でもらって自動的に家にたまっているもので、買うものという感覚が薄い。とはいえ今は、子どものポケットに入る小さいサイズが欲しくなり、ようやくそれだけは買うのに抵抗がなくなった。
それからペットボトルの水とお茶。私が小さい頃、水は水道以外の選択肢もなく、お茶は家でいれるものだったので、初めてペットボトルで水やお茶が売られるようになった頃は、「これ買うの!?」と違和感があった。今もつい、買うなら「味のついたもの」を選びたくなる。
「買わないですむもの」と頭の片隅にこびりついているものを買うのは、ちょっと贅沢で手抜きなイメージを伴う。ポケットティッシュを買うなんて「なんかもったいない?」と感じたり、ペットボトルのお茶を買うなら水筒持って来ればよかったなぁ、と思ったり。
ぞうきんも、どうやら同じで、私の記憶の中で、「古くなったタオルを縫って作るもの」として定着している。あれは買うものじゃなかった。
■時代も環境も変われば「買う」は別の価値を持つ
今の私には、小さなポケットティッシュを「買う」ことは、「子どもが持ち歩きやすい」という価値を持っている。ペットボトルの水やお茶には、安全も便利さがある。
ぞうきんだって、本当は、同じこと。
時代は変わった。ミシンは、電気炊飯器ほど「どの家にもあるもの」じゃない。100円ショップにはモノがあふれて、たいていのものが作るより早く簡単に手に入る。仕事をしていたら時間だってない。そして裁縫はもはや、「料理」や「洗濯」のように生活に必要な家事ではなく、趣味や特技のジャンルになりつつある。
当時、実際には母がミシンをかけるという人的・時間的コストによって生み出されたぞうきんは、今の時代と生活環境なら、それを100円玉に置き換えるだけの価値が十分あるはずなのだ。
■「親としての自意識」の壁
ところがポケットティッシュと違ってぞうきんのちょっと面倒なところは、どこか自分の母親の記憶と結びついて、買うことが「親としての手抜き」のように思えるというおまけがついてくるところ。
自分が自分に対して思うだけで、友人がぞうきんを買っていても、本気でなんとも思わない。ましてやぞうきんを縫ったかどうかで「愛情に違いが……」なんてこれっぽっちも思わない。
なのに、何かがひっかかる。そういえば、新入園&入学時の「布ものグッズ」もそうだった。買ったってオーダーしたっていいのに、結局なんだか手放せなくて作ってしまった。自分の母がやっていたようなことをやりたいとか、「手を抜いていない」と「自分が」思いたいとか……そういう隠しきれない気持ちのカケラがどこかにある。
今の私と母では、時代も環境もかなり違う。だから家事全般、とっくに割り切って手を抜いて、自分の母とは比べようもない適当さを貫いているのに、どこか呪縛めいた「親としての自意識」とか「母イメージ」みたいなものが、まだくすぶっているらしい。
いい加減、そういう「親/母イメージ」って捨てないと格好悪いなぁ、捨てられないのって弱さかなぁ、と思っていた。これ、ぞうきんを買ったら私はなにかひとつふっきれるんじゃないの?……なのに、なんだか、やっぱり買いそびれた。
結局、敵は自分の中にあり。
■自意識はちゃんと壊れる、はず……
新入園&入学の布ものグッズを作ったときの満足感というのは、完成時がマックスだった。実のところ毎日の登園登校が始まれば、やがて手製の名前シールやアイロンプリントは汚くはがれ始め、黒マジックで不恰好に名前を書くことにためらいがなくなるし、手間のかかった手提げは学校に置き去りにされ、どこかでもらったイマイチなエコバッグや紙袋も平気で持たせるようになる。
そうやって自分のこだわりは、それどころではない多忙な日常で薄まり、がしゃがしゃと壊れていってくれる。1回目より2回目はちゃんと手を抜けるようになっている。
だから、それが弱さだろうとなんだろうと、ノスタルジーやら自意識やらが勝り、作る気力と体力が残っているなら、まぁ、しばらく、ぞうきんくらい縫い続けてもいいのかもしれないな、と思うことにした。
結局、うっかり子どもと寝てしまって明け方にミシンをかけた。2枚どうにか縫ってギリギリセーフ!と自己満足にひたっていたら、子どもが3人いる友人たちの顔がふわりと浮かんできた。
そうか、それって一度にぞうきん6枚なのか!!!
それは迷わず100円ショップに走った方がいいと思います……。
![]() | 狩野さやか ウェブデザイナー、イラストレーター。企業や個人のサイト制作を幅広く手がける。子育てがきっかけで、子どもの発達や技能の獲得について強い興味を持ち、活動の場を広げつつある。2006年生まれの息子と夫の3人家族で東京に暮らす。リトミック研究センター認定指導者。 |
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