世の中には、子どもを産んだことのない人を黙らせることのできる魔法の言葉がたくさんある。

そのうちのひとつは、

「子どもを産んでいないから未熟だ」

であり、もうひとつが、

「子どもを産めば親の気持ちがわかる」

である。

本当にそうなんだろうか。
私は以前からそれに反論したくてたまらず、子どもを産んでからもずっとそのことを考え続けてきた。

「子どもを産んでいないから未熟だ」とか「子どもを産んで成長しました」という言葉については、以前ここで考察し、「『子どもを産んだら成長できる』ってどうですか?」という記事にまとめた。

というわけで、今回は、

「子どもを産めば親の気持ちがわかる」

という言葉について考察したい。

■子どもからの告発を封じ込めるパワーワード


さて、
「子どもを産めば親の気持ちがわかる」
というのは、どういうときに使われる言葉だろうか。

それは、親によって理不尽な目にあった子どもが、成長するにつれて大人の思考力と語彙力を獲得し、かつて自分を抑圧した親を告発したときに浴びせられる言葉である。

親自身が子どもに向かってそういうこともあるし、告発を聞いたよその大人が優しくそう諭してくることもある。

どちらにしても、子どもの立場でこれを言われるとぐうの音も出ない。

私も、かつて何度となく、母親自身にこの言葉で諭されたものだ。
だから、子どもを産んで、子どもを育てて、親のあの言動が理解できるのかどうかをずっと考えてきた。

その結論は、

「確かにそういう行動をしたくなったのだろうなあ。それは理解した。しかし実際に行動してしまうことは理解できない」

ということである。
まあ要するに「半分だけ気持ちが分かった」というところか。

■部下を育てるよりも育児のほうがよっぽどシンドイ


そのわかった「半分」とは、つまるところ子どもを持つと、とんでもなく余裕がなくなるから、ということに尽きる。

まず、自分のペースで行動できない。
赤ちゃんが生まれたばっかりの頃はろくに寝られない。
そして、子どもがいれば座ってゆっくり食事を楽しむことも、ゆったりお風呂に入ることも許されない。
少しでも離れれば泣くから、トイレのタイミングを見計らうのが一苦労だし、ドアを開けながら用を足すこともある。

少し成長しても、ちっとも楽にならない。やろうと思えばひとりで塗り絵や絵本を読むこともできるのに、しょっちゅう「見て見て」といって絡んでくるし、親を巻き込んで「一緒にやろう」といってくる。

とてもじゃないが、「お互い、好きなことをして過ごしましょう。私は本を読みたいから、あなたはひとりで塗り絵をしていてね」なんて状況にはならない。

そして、親の思い描いたペースで動いてくれない。
朝も帰宅後もやることが山盛りで分刻みのスケジュールなのだが、子どもには子どものペースがあるので、親が急いでほしいところでダラダラする。しかし、親が決めた分刻みのスケジュールは、子どもが健康的な生活を送るために必要な、入浴や歯磨きやスキンケアやらの諸々なので、スキップできない。

ようやく準備万端整って出かける直前には「なんだか指が痛いの。ばんそうこう貼って」といってくる。もしくは、すべてのタスクを終了し、力尽きて布団にダイブしたとたんに「のど乾いた。お茶ちょうだい」といってくる。

これでイライラするなと言われれば無理なのだ。

私自身、独身時代には新人の育成や部下のマネジメントもしていたが、どんな部下が相手であっても、ほとんど腹が立たなかった。相手が思うモヤモヤ感はかつて自分も抱いたものだったから、どんな悪態をつかれても「まあそうしたくなることもあるよね」と受け止められた。そして、部下の話を冷静に聞き、モチベーションをあげるために適切な言葉をかけたり行動をしたりすれば、部下はたいていスムーズに動いてくれたものだ。

しかし、子どもはそうはいかない。そもそもこちらの余裕のないときに限って、無理難題を要求してわざと喧嘩を吹っかけてくる。大人なら、たいていは気を遣ってそんなことはしてこないだろう。

そして、些細なことでへそを曲げるし、大音量で泣きわめいて、ときには暴力をふるってくる。しかもそのとき、必ずこちらを怒らせるツボをついてくるのだ。さらに、絶対に自分の非を認めないときた。どんなに論理的に説明しても、子どもの前に論理なんてあったもんじゃない。結局「でもできない!」「やりたくないの!」と非論理的に反論されて終わりだ。

ただでさえ育児は体が疲労困憊するというのに、そんな状況に出くわしたら、たびたび頭の奥で白く何かがさく裂する。もう親なんてやめてやろうかと何度思ったことか。

■「わかる」と「やる」には隔たりがある


そんな育児の煩雑さを体験した今、予防接種やら通院やら、習い事の付き添いやら、学校や園関係の準備やら、教育のための資金のやりくりやら、まあ親は私を健康な大人にするためにすごい労力をかけてきたんだなということはわかった。

だが、私は育児に伴う甚大なストレスのはけ口になっていたのだな。ということもわかった。

たしかにストレスがたまれば、私も「私がかつて親にやられてきたことを今わが子にやったらどんなにスカッとするだろうか」とちらりと妄想することはある。
しかし、小さい肩を震わせて泣く我が子を見ると、そんな気持ちは失せる。
「やってしまう気持ちはわかるかも」というのと「だからやる」とでは大きな隔たりがあるのだ。

そもそも、考えてみてほしい。もし、誰かからものすごくひどい仕打ちを受けたときに、「あいつをメッタメタに傷つけてやりたい」という思いに駆られたことがあったとしよう。でも、実際にそれを実行する人がどれくらいいるだろうか。

実際にやれば罪に問われて自分の人生がめちゃくちゃである。
いや、たとえ罪に問われなかったとしてもやるのは得策ではない。確かに人を傷つければその瞬間はスカッとするかもしれないが、次に大きな罪悪感に襲われる。その罪悪感と向き合うのが恐ろしくなったら、また人を傷つければその瞬間だけ罪悪感を忘れられる。こうやって人を傷つけることをやめられなくなってしまうのは、とても恐ろしいことではないだろうか。

だから想像力さえ働かせれば、おのずと「実際にやる」ことはできなくなる。それが理性の力というものなのだ。

つまりこういうことになる。
子ども側から告発できたときに、「親になればわかる」と親が言うのは、衝動を抑えられなかった自分を正当化しているということなのだ。要するに理性の弱い人の言い訳でしかない。

もちろん、「そうはいっても理性のタガが吹っ飛ぶくらい自分は追い詰められているんだよ」と反論したくなる人もいるだろう。それくらい育児は過酷だ。でも、まずは理性のタガが吹っ飛ばないことを第一目標にして、まずは自分が追い詰められない方法、誰かの手を頼る方法を死に物狂いで探さなければいけないのではないか。

いやいや、親だけにそれを押し付けるのは酷かもしれないな。やはり社会全体で親をサポートする体制が必要だろう。ただ、そのサポート体制というのは、親を告発した子どもに、まわりの大人が「親になればわかるよ」と親側を擁護することではない。親がストレスをためすぎて子どもを傷つけるのを未然に防ぐしくみでなければいけないはずだ。

もちろん、こんなことを書いている私自身だって、知らず知らずのうちに子どもを傷つけていることはたくさんあるのだろう。なんせ親が思い描いた1日のルーティーンをこなすという、至極簡単に思えるようなことですら、子どもと真剣勝負しなければいけない。子どもの無理な要求には、時間がなければこちらも無茶な論理でねじ伏せてしまわざるを得ないことは多々あるのだし。

だから、私自身将来子どもから、「あのときああされてつらかった」といわれることがあると思う。そのときは、「あなたも親になればわかるから」ではなく、「あのときは余裕がなかったの。ごめんなさい」と言おうと思っている。そして、よその若い人が親への不満を口にするときも、決して「親になればわかるよ」という言葉を安易に使わないようにしようと思う。

子どもを産むと、どうしても今までと物の見方が変わる。そんなとき、かつて考えていたことをコロッと忘れて「あれは何も知らなかった頃に考えていたことだから」「その考え方は未熟な人ならではのもの」と完全に否定すると、自分が大人の階段を上ったようで気持ちがいい。しかし、それは思考停止だ。大人の階段を上ったのではなく、老害に一歩近づいたのである。この手の人はそのうちぼやくに違いない。「若い人の考えていることがさっぱりわからない」ってね。

私は、たとえ物の見方が変わっても、今まで抱いていた気持ちを忘れたくはない。かつてもやもやとした気持ちを抱いたのもまた、自分だからである。そして、そうしないと、今なお生きづらさを感じている人、今後も立場が変わらない人はいつまでたっても報われないし、世の中はよくならないと思うのだ。

今井 明子
編集者&ライター、気象予報士。京都大学農学部卒。得意分野は、気象(地球科学)、生物、医療、教育、母親を取り巻く社会問題。気象予報士の資格を生かし、母親向けお天気教室の講師や地域向け防災講師も務める。