私は熊本県で生まれた。熊本城やデパートなども比較的近く、県の中心地的なエリアだ。
中心といっても、少し足を延ばせばこんこんと水が湧く湖や原っぱが広がり、何はなくともそこに行けば自然と遊ぶことができる……そんなところで幼少期のほとんどを過ごした。
子どもができてから生まれ育った田舎へ帰ると、自分が子どもの頃に遊んだそうした場所へ久しぶりに足を向けてみたくなるものだ。

子どもの年齢にもよるだろうが、とくに小学校入学前の子がいれば、多くの日常において、親が自分の思うような一日を過ごすことは難しいだろう。
子どもに合わせたスケジュールと行動になるので、日常生活では「静かに本が読みたい」とか「街歩きを楽しむ」といった、私自身が本来やりたいことは叶わず、室内でブロックをしたり公園でお砂場遊びをしたりする。
それも、ひとりでずっと遊んでいてくれればいいのだが、子どもも最も都合のよい遊び相手が親であることを知っているので、そう離してはくれない。その上最近のおもちゃはどこかに知育の要素があったりして、遊ばせていても「赤はどれ?」とか「同じ形を探すんだよ」といった“お勉強的やりとり”が見え隠れ。
それでも、そんな子どもとの遊びを私自身が楽しめればいいのだろうが、子どものいなかった頃にたまに会う親戚や友人の子どもじゃないし、それもなかなか難しい。
なんだかんだと慌ただしい日々のなかで、そんな対応ができないどころか、先のおもちゃを介したやりとりだと、「なぜまた色を間違えるのか?」「なぜこんなシンプルな形で間違えるのか?」と、楽しむどころかイライラしてくる始末。こんなんじゃ、子どもだって楽しいわけがないことは、うっすらと自覚している……。
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中心といっても、少し足を延ばせばこんこんと水が湧く湖や原っぱが広がり、何はなくともそこに行けば自然と遊ぶことができる……そんなところで幼少期のほとんどを過ごした。
子どもができてから生まれ育った田舎へ帰ると、自分が子どもの頃に遊んだそうした場所へ久しぶりに足を向けてみたくなるものだ。

子どもの年齢にもよるだろうが、とくに小学校入学前の子がいれば、多くの日常において、親が自分の思うような一日を過ごすことは難しいだろう。
子どもに合わせたスケジュールと行動になるので、日常生活では「静かに本が読みたい」とか「街歩きを楽しむ」といった、私自身が本来やりたいことは叶わず、室内でブロックをしたり公園でお砂場遊びをしたりする。
それも、ひとりでずっと遊んでいてくれればいいのだが、子どもも最も都合のよい遊び相手が親であることを知っているので、そう離してはくれない。その上最近のおもちゃはどこかに知育の要素があったりして、遊ばせていても「赤はどれ?」とか「同じ形を探すんだよ」といった“お勉強的やりとり”が見え隠れ。
それでも、そんな子どもとの遊びを私自身が楽しめればいいのだろうが、子どものいなかった頃にたまに会う親戚や友人の子どもじゃないし、それもなかなか難しい。
なんだかんだと慌ただしい日々のなかで、そんな対応ができないどころか、先のおもちゃを介したやりとりだと、「なぜまた色を間違えるのか?」「なぜこんなシンプルな形で間違えるのか?」と、楽しむどころかイライラしてくる始末。こんなんじゃ、子どもだって楽しいわけがないことは、うっすらと自覚している……。
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